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2022-08-25

英雄たちの選択~義仲

なるほどね~。義仲と義経がいたから平家は滅びた
2人とも軍事の天才だった。

「地方の怒り 都を制圧す!~木曾義仲の野望と挫折~」

<源平合戦のさなか、すい星のように登場した天才武将・木曽義仲。
倶利伽羅(くりから)峠の戦いで平家の大軍を破り都を制圧する。
支えたのは中央に対する地方の怒りだった。

木曽義仲の躍進を支えたのは地方から収奪しか行わない都への怒りだった。
しかし都を占領した義仲を待ち構えていたのは、大飢饉による食糧不足。
配下の義仲軍も略奪をはじめ、たちまち評判を落としてゆく。
義仲は後白河法皇から高い官位を得ることで配下の武士たちを統制しようとするが、それこそ都の魔力だった。
後白河の巧みな政治力に翻弄され、平家、鎌倉の頼朝と二正面作戦を強いられる。
絶体絶命の危機を脱出する術はあるか。>

反乱軍が地方から都を制圧する最初が義仲
都から見たら、義仲と平家と鎌倉の頼朝で三つ巴になっている。まるで中国の三国志のようだ
義仲の挙兵
西国の干ばつ、飢饉、
北陸の年貢の取り立て強化によって恨みを買う。不満分子の勢力を束ねる。
北陸の米がないと都の人口は維持できない。朝廷や都からの収奪にさらされる
北陸は都の食料庫
当時の海上交通は日本海側が主要
商品流通を押さえる意味では北陸を拠点にするのは大正解


戦国時代と違って、何らかの正当性が必要。北陸の宮、鎌倉の皇族将軍

勢いに乗って上洛を果たす
平家都落ち;安徳天皇を伴う

平家の軍勢がいなくなって治安が悪化:略奪が横行
義仲は都の警備を期待され一任
しかし義仲軍も略奪、大飢饉により義仲軍を支える食糧も物資も残っていなかった。評判を落とす
当時、戦国時代まで兵站という感覚がなかった。現地調達主義
平家も都から食糧を持って逃げた。そこへ入ってきたから無理

さらに法皇と対立。次期天皇をめぐって。
一介の武士が皇位に口を挟むのは異例。北陸宮を推挙

京都の魔力を甘く見すぎ
だから頼朝は京都に近づかなかった


都が難しいことを小さい頃からよく分かっているので、簡単には手を出さない

頼朝は自分,鎌倉を支える文官を貪欲に求める。
でも義仲の側にそういう人達がいたのかな?
彼が本当にやるべきは京都の様子に明るい人をブレーンとして作っていくらことが重要だった

だから未熟なままで京に進入してしまった
同時に政治的駆け引きが未経験で非常に稚拙
そういうところが結局後白河法皇に政治的に翻弄される原因

平家追討に出陣
義経上洛~後白河法皇の差し金

義仲は法皇の住み家を襲撃,法皇をとらえ幽閉
法皇から政権を奪う
しかし朝廷に反旗を翻しておきながら、権威だけを利用するのは道理が通らない
都の近隣の勢力は鎌倉に寝返り、北陸で加勢した軍勢も離散
残ったのは最初に木曽で挙兵した僅かな手勢のみ

義仲は軍人、頼朝は政治家だった。
革命が成り立つには優れた軍人と優れた政治家が必要。
頼朝には義経がいた。政治的天才が鎌倉にいて、義経が転戦して育成という構造は強い。


北陸の宮を戴いて、京都の朝廷にも能力を発揮出来ずに不遇をかこっている人がいる。
そういう人を連れて北陸へ落ちて、北陸幕府を開けばよかった。


南北朝に近いような第三勢力を持って、しばらくおれたら、また状況は大きく変わる。
義仲は自分がやれることとやれないことの自己分析が足りなかった。
何がやりたいのか?
幕府を開きたいのか?日本のトップになりたいのか?
京に一緒にいるのでは無理。

この時のキーマン。後白河法皇で、彼はもう一度平家と同じような存在が現れることがとにかく嫌。
ゲームプランを持つべき。交渉であれ、戦であれ。
彼にはゲームプランがないのではないか。勢いとその場限りの決断があるだけ。
ゲームプランのなさが彼を滅亡へ導いていったのではないか?

何故ゲームプランがなかったのか?

あまりにも時間がなかったんでしょうね。急激に膨張して京都に入ったからね。

歴史に躍り出て、亡くなるまで3年ですからね。
本当に僅かな期間しか活躍しなかったから、あまりにも生き急ぎ過ぎたというところがあるのかもしれない。
義仲の功績
時代がすごい勢いで動いていくのは義仲の功績。
義仲が北陸で動かなかったら、4すくみで時代が動かなかったかもしれない可能性が高い。
戦にはめっぽう強い無礼者が京都を制圧したということの意味は大きかった。
軍事貴族ではなくて、本当の意味での武士の時代を扉を蹴破るように開いていった。


日本人の3人の法則
義仲が倒れたのを頼朝は後ろで見ている。
同じことは信長が何をやったら駄目出しかを家康は見ていて、
秀吉が何をやったら駄目かを見ていて、3人目の家康が取ると。

日本は古い構造社会の上に立っているので、2歩も3歩も進んだ人は倒れて不幸に終わる。
半歩だけ進んだその後を歩く人間が果実を持っていくのが人間社会の構造かなと。
義仲はファーストペンギンだった

そういう生き方が後に松尾芭蕉の心を捉える
したたかさが足りないところが愛おしい。友達になりたい。一緒に酒を飲むのがいい。家来にはなりたくない
大津市。毎年義仲の命日には義仲を愛する人たちが義仲寺に集まり供養を行っている。
「木曽のな~なかのりさん」
実は木曽節は義仲、弔うために作られたもので昔は歌詞が違ったと、義仲の子孫は語る
木曽の義仲さん~だった。


【司会】磯田道史,杉浦友紀,
【出演】本郷和人,加来耕三,宮崎哲弥,

2022-08-20

真田丸~最古の絵図

真田丸
詳細な最古絵図 松江で発見

松江市は12日、大坂冬の陣(1614年)で戦国武将、真田信繁(幸村)が大坂城の南側に築いた「真田丸」を詳細に描いた最古とみられる絵図「大坂 真田丸」(縦27.8センチ、横40.6センチ)が見つかったと発表した。絵図には真田丸の中に「出丸」(出城)などが描かれていた。絵図の調査を担当した奈良大の千田嘉博学長(城郭考古学)は「真田丸が大坂城の付属施設でなく、独立した城だったと考えられる」としている。
2016/7/12
https://mainichi.jp/articles/20160713/k00/00m/040/081000c

見つかった絵図は、全国の主な城下町を描いた絵図74枚をまとめた「極秘諸国城図」の1枚。所有していた市民が昭和28年、市に寄贈し、現在は同館が所蔵。今年2月にこの中の別の絵図を調査していた際、見つかった。

 雁皮紙(がんびし、27・8センチ×40・6センチ)が使われ、絵図を包んでいた紙に元禄の表記があり、絵図は真田丸がすでに破壊された後の元禄年間かそれ以前の制作とみられる。松江藩が原本を基に、現地の観察も交えて藩士に描かせたとみられる。

 絵図には、南側の堀に「惣構(そうがまえ)堀」と記され、ここが真田丸の一番外側だったと分かる。また、北側の小さな曲輪(くるわ)に「出丸」とあり、その東側に腰曲輪が描かれるなど、描写や記述が具体的だ。

 真田丸に詳しい千田嘉博・奈良大学長(城郭考古学)は「実態が不明な真田丸の規模や形状がより詳細に分かる貴重な発見。単なる大坂城南側の付属施設ではなく、独立した出城だった可能性が高まった」と話している。
https://www.sankei.com/article/20160712-KBZFVZT2RVP63PAGQTYFEIB6HM/

松江歴史館「真田丸」絵図で真田丸を探せ
http://osakakoteisa.blog.fc2.com/blog-entry-41.html?sp

2022-08-19

英雄たちの選択~真田信之

お兄ちゃん、色々と大変だったのね~。
そしてがんばったのね~

決戦!真田丸 父の教えか?兄弟の葛藤か?真田信之の決断
2019年(初回2016 11月17日)

<彼が武器を取って戦ったのは関ヶ原の戦まで。その後60年近く武器を持たない長い戦いが始まった。
後に将軍家から「天下の飾り」武士の鑑と讃えられた。

関ヶ原の戦いの前夜、真田一族の決断、犬伏の別れ
信之が勝者、父と弟は敗者となった。
昌幸・信繁は九度山に幽閉

仕送りが少な過ぎるのではないか?

20両は数百万円に過ぎない。
50石取りの武士の年収
昌幸、信繁がもらうお金にしては一桁足りない数字
有能な人物を不遇に置くほど恐ろしいことはない

昌幸は死去、信繁は大阪城へ。
真田丸は謎が多く、実像は不明なことが多い。

島根県松江で、
真田丸に関する新たな発見があった。

大阪の陣に最も近い年代の絵図。
大阪城の南に築かれた出城。
従来は大阪城に接していると考えられていた。
だが新発見の絵図からは、谷を挟んで独立した出城だった。
さらに正面に築かれた土橋と呼ばれる出入り口。
守るだけでなく、攻めることも考えていた。

2016年7月、大坂の陣の真田丸・最古の図面が発見された。そこには正面から出撃できる土橋が描かれていた。
真田丸は、守りに徹した出城ではなく、いつでも攻撃できる構造になっていた。


「成功とは自分が生まれてから死ぬまで自分に向いた分野でやりたいことをやりぬくこと」

合理的な信之
武名がすべて。徳川に一泡吹かせたことで、真田の名が天下にとどろく。
反徳川の空気のある人たちは真田を憧れの目で見る。

黒真田と白真田
白真田を従えることで強い真田が徳川の犬になっている状態。これが近世の入り口で出来上がった真田と徳川の関係
徳川4代家綱が信之を「天下の飾り」と言っている。あれだけ強かった真田が今となっては徳川の飾り。
徳川の武を飾るためのオーナメント(装飾品)
だから改易に処されない


もしお父さんと昌幸生きて、大阪に入っていたら、どうなっていたか?

昌幸にはかなわない。予想がつかない。

家康の寿命の関係。大阪の陣の後死んでいる。
昌幸が大阪城で3年頑張ればいい。
10万近い牢人と天下の名城、ふんだんな兵糧とお金とをもって幸村と違って昌幸には説得力がある。
言葉も巧みで、軍議を主導する。
大阪城から討って出たら、関ヶ原からこっち、生駒山地までの間の全体を地形の砦として機動戦をやって
敵を寄せつけないかもしれない。
家康が死んだら、本当に秀忠で昌幸のいる大阪城が落とせるか?


家康は昌幸も死んだ、前田利長も死んだ。今だと思って、大阪城攻めたのかもしれない。

長野県内松代。信之の菩提寺、大鋒寺。信之の隠居屋敷にあったとされる板戸が移築されていた。
籠の中に入れられた鳥の姿の絵。父と弟?自分自身?

歴代の藩主が秘蔵してきた箱。家康の書状だけでなく、石田三成や大谷よしつぐからの誘いの書状も残されている。
真田家の重要な記憶として残した?

信之が再興した典厩寺。武田信玄の弟信繁を弔う寺院。墓の脇に佇む小さな供養塔。実は弟の供養塔?
日本中の大名がみんな三成からの誘いの手紙をもらったけど、残してない。家康にもらった手紙だけを残している。
この家は双方残している。
戦いがどうだったか、客観的に子孫に残して、先祖の苦労を見せようという,真田流合理主義が貫かれているような気がする。
完全に徳川の世ばかりではないという意識を子々孫々に伝えようとしているのかもしれない。


江戸城外郭の西の外堀の一部、真田堀
大阪城の真田丸
東西の大城郭はどちらも真田がポイントになっている。

信繁の生き方は美しいけど、滅びに向かう恐ろしさがある。
信之の生き方も素晴らしい:生きのびることが正義という生き方もと知ってほしい。

自分がやりたいことをやり抜くことが成功。
お父さんは策略家として後世に名を残して、戦闘力に優れていた弟、兄は生存外交力で生きのびた。

2022-08-13

英雄たちの選択~後鳥羽上皇

後鳥羽上皇
承久の乱

いやあ、知らなかった!
面白かった~!


「史上最強?後鳥羽上皇の謎~承久の乱の真実~」
<史上最強といわれる後鳥羽上皇は、和歌の道だけでなく武芸全般に優れた上皇だった。
上皇が鎌倉幕府に戦いを挑んだ日本の歴史の大転換点、承久の乱の真実に迫る。>

<「新古今和歌集」の選者として有名な後鳥羽上皇。
一方で、自ら「菊御作」という刀を鍛えさせたという武人の顔もある。
文武両道に優れた、史上最強の上皇こそ後鳥羽上皇だった。
その上皇が、執権・北条義時の鎌倉幕府に敢然と挑んだ戦いが、承久の乱である。
鎌倉3代将軍・実朝の暗殺を契機に、
後鳥羽上皇は、朝廷と武家政権のありようをめぐって、北条氏と真っ向から衝突する。
日本の歴史の大転換点、承久の乱の真実に迫る。>

<これで 日本史を真っ二つに切るといったら、ちょっと大げさかもしれないけど、
それに近いほど重要なことかもしれないですね。
承久の乱 以前と以後で、日本史は大きく変化してますね。
それまではね 権威があれば、暴力を持ってなくても支配できたんですよ。
例えば 朝廷とかね。さほどの暴力を持ってなくても。
それが その世の中はもう ここで終わったんです。

このころの上皇っていうのは…
何せ 源平合戦を通じて、皇室が 武家とやり合ったりしながら
「共進化」っていって、共に強くなってっちゃうわけですよね。
とうとう こんな人物が現れたと。

優美で 高い品格を備えた細身の太刀…
後鳥羽上皇が鍛えさせた刀だと伝えられている。
「草薙の剣」が失われたことが背景にあるかもしれない

後鳥羽上皇は 19歳で息子に天皇の位を譲り
管弦や蹴鞠 笠懸など、諸芸の習得に力を注いだ。
中でも重視したのが和歌である。

後鳥羽上皇は正室を通して実朝をコントロールすることを考え
自分の従兄弟に当たる女性を鎌倉に送る。これが奏を功したのか実朝は朝廷に接近してくる。
実朝と後鳥羽上皇で次なる段階の計画が進行した。
それは親王を鎌倉に送って次の将軍にして実朝が補佐するというものだった。
後鳥羽上皇にすればこれが実現すれば朝廷が幕府を掌握することが可能となることだった。

歴史書「愚管抄」は こう記す。
「親王を将軍とする」。
「親王」とは、上皇の実子 頼仁親王を指す。
この親王を鎌倉に下向させ 将軍とし、右大臣 実朝が補佐する。
これこそが上皇の計画だった。


つまり 公家政権である朝廷とはまた 別の政権として鎌倉に出来た武家政権 幕府をも、
自分の子どもを通じて、そして 信頼する実朝を通じて、統治下に置くことができるという。

天皇の権威のもと、この国を 再び まとめ上げるという後鳥羽上皇の夢は、実現寸前にまで こぎつけていた。

歴代の上皇とか天皇の中で、総合力でいうと間違いなく ナンバーワンです。
とりあえず政治 経済 それから文化。
なんだけれども、三種の神器はないっていう、ちょっと…ねじれの構造がある人ですよね。

上皇軍と幕府軍が激突した。
10倍以上の幕府軍を前にして、兵を分散していた上皇軍は大敗。

承久の乱というのは 本当に歴史上 唯一無二の戦いです。
つまり 武家が朝廷を全面的に敵に回して
しかも 勝利者になって、そのあと 滅亡しなかったと。 朝敵なのに。


ルートを どんどん 後鳥羽は 自分で作っていっちゃったって感じしますよね。
後鳥羽上皇の敗北は、その後の日本を大きく変えることとなった。

上皇方として戦った西国の守護はことごとく処分され
そのあとには 東国の御家人が赴任した。
上皇の思惑とは正反対の形で、日本は 一つとなった。

皇位継承に、幕府が口出しするという
前代未聞の事態だった。


これはね、このときだけの問題じゃなくて
これがあったから そのあとの武士ってのがあるわけです。
例えば 僕は「御成敗式目」ってのを すごく重視しているんですよね。
初めて 日本人が 自分で法秩序を定めたわけです。

でも そういうことができるのは、このときの成功体験というか
このときから得た自信ですよね。

人っていうのは 貴族であって、殿上人だけが人であったような時代。
東夷というのは、人扱いされてなかったんだろうと
思いますけれども…。

でも その人たちが、実際に動いて 時代を推し進めちゃった。
その初めての歴史の転換点がここだったのかな

たぶん このとき 天皇の役割っていうのが、大きく 変わった気がしますよね。

財力 取り上げられちゃったわけですよ。基本的には 武家方に。
あと残るのっていうのは、財力 武力 権威のうち、権威だけ残ったわけですよね。

さあ 皇室 どうするか? と。
結果ですけど 残った権威に寄りすがって、永続するという。

島国じゃなかったら、武力もなく財力もない者は滅ぶしかないんですけど。
この島国は 同じメンバーで外敵に襲われずにいくから
同じ幻が見えるんですよ 権威という。

北条も 天皇を なんと、なくそうとしないわけですよ 上皇も。
持ちつ持たれつ関係を選んでいくという
ここが やっぱり面白いところだよね。

何だかんだ言いながら、この後鳥羽さんの 1221年というのは
日本史上、ものすごい画期だというんですけど

財力や権威を持ってた人間を、単に 武力を持った者が圧倒する時代が始まって

これは 力の時代で これがずっと、今度 1868年の明治維新まで
武力を持った「武」の時代が続く
わけですよ。

外国の知識人なんか 日本の歴史は…。
「じゃあ 何で天皇は いるんですか?」と。

基本的に 一番やっていることは要は 官位をね 授けると。
官位って じゃあ 何か? っていったら、別に ほとんど名前しかないんですよ。
ある意味で 空虚なことしかやってないんだけれども
それがないと できないと。

強いっていうことだけではね、永続的で広範囲の支配っていうのは
うまくいかない
んですよね。
だから そこに何かが必要なんですね。その何かにあたるものを
一応は 天皇からもらってるんですけど、その何かが何であるかっていうと
中国のように 天命だとか 天の原理だとか、はっきり言えないんですね。

よく分からないんだけど…
よく分からないものに
我々は支配されているんですが
それが 実に うまく機能したっていうことなんですよね。

話を深めれば深めるほど
謎も深まっていきますけどね。

いよいよ 日本の国の構造の問題になってくる…。

なぜ 天皇は残ったのだ?
https://tvpalog.blog.fc2.com/blog-entry-5713.html
https://tv.ksagi.work/entry/2019/10/09/231242


2022-08-12

英雄たちの選択~謙信

七尾城が素晴らしかった~
いつか見に行きたいなあ。

英雄たちの選択
「謙信VS.信長 戦国最強は誰だ?~真説・手取川の戦い~」
<初めは武田信玄という共通の敵に対抗するため同盟した謙信と信長。
しかし蜜月は続かなかった。信玄が死ぬと、すれ違いが始まり、やがて決定的な対立に。
焦点になったのは能登の巨城・七尾城。
謙信に攻められる城を救援しようと信長は大軍を派遣。
一刻も早く城を落とさなければ挟み撃ちになる謙信。策を弄して城を落としたが、織田軍の進撃は続く。>

<城郭考古学者 千田嘉博さんが注目したのは…
当時 能登を支配していたのは 名門 畠山氏。畠山氏の居城…
いくつもの尾根に曲輪が築かれた巨大な山城。
標高およそ300メートルに築かれた七尾城。
東西1キロ 南北2.5キロ。日本屈指の巨大城郭。

城内から出土した品々…茶会で珍重される逸品。
都の華やかな文化が 日本海経由で持ち込まれていた。
さらに 近年の発掘調査により
城の麓に「惣構え」が築かれていたことも判明した。
惣構えとは 城下町も含め城の外郭を囲んだ堀のこと。

「強い」って何なんだろう
「分を守る」とか 要するに 本来 こうすべきだと…。
少々 損をしても それを頑張ってやるという形ですね。
義を通すというのは 一見 美しいんだけど
しかし 歴史の教訓ということからすると
しばしば勝利者にはなれないどころか、滅んだり 滅ぶ寸前までいったり、負けたりということが
多いのかなという気がしますよね。

やっぱり こういう戦国だとか、競争して戦いとかいう論理になると
外の環境の情報を しっかり集めて、
柔軟に 手や対処法を変えていったものが生き残ったというのが
歴史の教訓かなという…悲しい現実だけど。>
https://tvpalog.blog.fc2.com/blog-entry-5591.html

金子拓、小谷賢、中野信子、磯田道史、杉浦友紀
プロフィール

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