fc2ブログ

2022-12-01

竹御所

<ドラマでは全く出てきませんでしたが、
頼仁親王を実朝の養子に迎えるにあたって、頼家の娘の竹御所を正妻とし、
生まれた子供を鎌倉殿にすることで、源氏の血筋をつなげる気であったことは確かです。
この時点では、やはりまだ「鎌倉殿は源氏の血筋」という考えが生きていたと思われます。>
https://twitter.com/rGDfU0KgzH2ankI/status/1592662660612788224

<しかも頼仁親王は千世さんの血筋なので、
実朝くんからしたら、千世さんの血と源氏の血がつながっていく、理想的な解決法だったワケです>

<頼仁親王が将軍になる話はなくなったけど、
それでも6代将軍宗尊親王以外はみんな頼朝の同母妹(もしくは姉)の血筋だから、
義朝の血統は受け継がれてるんだよなぁ〜
しかも4代将軍九条頼経には竹御所が嫁いでいるしなぁ〜>
https://twitter.com/SengokuShimadu4/status/1592792772448497665

<政子があっさりと養子をとればいいじゃあないと承諾した理由なんですが、
頼家の娘・竹御所(ドラマには出てきてません)が居たからというのは大きいのではないでしょうか。
 今回迎える親王を将軍とし、竹御所を妻にすれば 女系の頼朝・政子・頼家の血筋を繋げることができます>
https://twitter.com/Bourbonheim/status/1592512349961080833

<そして、親王と竹御所の子は
実質的に後鳥羽上皇+坊門信清娘++頼家(源頼朝+北条政子)+若狭局の血を引く子供となります。
そして、その大御所には実朝がつく。実朝は竹御所の叔父にあたりますが、義父となっています。>

<だから、この説明が無いと政子が血筋の継承を諦めてるように映って侘しい気分になるでしょう。
しかし、そうではないのです。
実朝や公暁の血統、つまり男系継承は諦めたが 
竹御所の血統による女系継承によって頼朝・頼家の血筋を残し、その大御所に実朝がつく…>

<源実朝がやってた政治は頼朝超えの手なんですよね。
実朝くん 源氏宗家の血を途絶えさせるどころか 寧ろ逆
父系のラベルを頼朝系から それより上の後鳥羽系に上書きして 母系を頼朝系にする戦略
母系の座を欲しいままにしてた北条に取って代わるわけです>
https://twitter.com/Bourbonheim/status/1592736096777273345

<結果的に頼仁親王の将軍誘致は叶わず、
竹御所鞠子は30代近くになり15以上も年下の三寅の御台所となるわけですが、
もし、2歳違いの頼仁親王と結ばれていたらどの様な歴史が作られたのか…
竹御所鞠子、興味深い人物です。>
https://twitter.com/yumyumkishow21/status/1592726659962404865

知らなかった~!

竹御所
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E5%BE%A1%E6%89%80
源頼朝と北条政子の唯一の孫娘・竹御所
https://reki-historia.com/2022/02/18/takenogosyo/
スポンサーサイト



2022-09-03

英雄たちの選択~解体新書

いやあ、面白かったです~!
本当にすごい偉業だったんですね!
鹿島先生の翻訳の解説が大変面白かったです~
杉田玄白も前野良沢も小田野直武も凄い人物だったんですね!
奇跡のタッグだったんですね~!
これがあったからこそ、西洋医学に追いつけた
のちにまさに「はたらく細胞」の絵図が描かれていた
「解体人形」がすごい!
まさに精巧な人体フィギュア!

『この本が日本を変えた!~杉田玄白“解体新書”誕生への挑戦』

杉田玄白
サイエンスの英雄
彼から日本の科学や学問が大きく変わって違う方向に向き出した。

現実に基づいて行われるようになる。
それまでの漢方、中国、アジア中心のところから科学を考えてきて、
そこからアジアから離陸して別の方向へ、日本だけが;中国とも朝鮮とも違う方向へ移動していく。
脳内英雄、頭の中の科学的な物の考え方を変えた。

医の博物館

前野良沢、九州、中津藩
中川順庵


会読作業~みんなで討論しながら訳していく~共同研究
~門外不出でない新しい医学を興す~後の西洋学研究の基本形になった
本の内容について議論する会読だというと、かなり自由にできるというのが江戸時代。

アルファベットも分からない状態で、辞書もない中で、これを訳すというのはかなりの挑戦。
できるかどうかじゃなくて、やらなきゃいけない
ヨーロッパ言語を知っていても、辞書もない状態ではそう簡単にはいかない。。
一つは絵があった。絵がなくてやるのは絶対無理。この絵に驚嘆したので、何が書いてあるのかみたい。
これが圧倒的だったと思う。

この絵を伝えたい。というモチベーションが一番大きかった。
解剖を見て衝撃を受けた、自分たちがやるべき。

前野良沢。奇跡の人。なんでこれくらい触れただけで分かるのというくらい、ものすごいオランダ語を解読する技術や感の鋭い人。ただ社会性が乏しい。

杉田玄白は社会性動物というくらい、社会性の高い人。なおかつ、翻訳したら、何が起きるか、よく分かっている人。
この二人がいいチームだった。奇跡的に集まった。


翻訳・義訳・直訳
当時の漢方医学には存在しない西洋医学の概念をどう翻訳すればいいのか?
彼らの功績~未知の知識に対して、的確な翻訳を当てようとしたことにある

神経:動脈、静脈!
現代でも使われる医学用語の想像。

江戸時代の医学を発展させて、明治時代になって西洋医学が急速に入ってくる時にも、対応することができた。

幕府の厳しい検閲を恐れ、早くから幕府の奥医師、桂川甫周を味方に引き入れる。
出版予告~解剖図を付けた。
漢方ではいまだに発見されていない人体の真実があると、センセーショナルな注釈


幕府や漢方医の反応を事前に探る
単語の手触りが分からないと翻訳できない
比較的オープンな田沼時代

平賀源内が紹介した絵師・小田野直武~後の秋田蘭画の創始者。
平賀源内から西洋画の手ほどきを受けていた
解剖図の模写を担当

前野良沢
周囲から蘭化~オランダの化け物
博物学や地理書にも目を通す

正確な翻訳に心を砕いていた


翻訳にはタイミングがいかに必要か
最も求められている瞬間に出すべき

医学は良沢(正確さ)と玄白(早さ)の両輪で進んできた

31年後、玄白の弟子が出版
医範提網
宇田川玄真
病理学や生理学を紹介
日本初の銅版画

飲食養生鑑・房事養生鑑
錦絵
無数の小人を使った養生訓
まさに働く細胞

50年後
解体人形
桐と和紙を使った
小林文素~農民
地元の寺子屋で読み書きを教えていた

まだ田沼時代に出版できてよかった
この後出版の大規制が始まる

辰野隆(タツノユタカ)
外国語は翻訳してはじめて分かる



鹿島茂(フランス文学者・評論家)
岩下哲典(歴史学者。専門は幕末維新史(情報活動史))
海堂尊(医師、小説家)


2022-08-27

英雄たちの選択~立花宗茂

面白かった~!
こんな人がいたなんて、知らなかった~!

「天下無双の名将・立花宗茂~関ヶ原敗戦・奇跡の復活劇~」

福岡県柳川市、旧柳川藩
藩主立花家の子孫。戦国大名に連なる家が今も城内と屋敷を守り続けているのは全国でも珍しい。

初代立花宗茂
秀吉からは当今無双の勇士と讃えられ、敵からも西国第一の猛将と恐れられた。
秀吉の天下統一戦にことごとく参陣
江戸時代には大阪の陣、島原の乱で活躍。その武勇を天下に轟かせた。

最大の試練となったのが関ヶ原の戦いだった。
決戦に参加できずに敗者となった。
しかしその後西軍で唯一旧領の回復を実現

家康からすると立花の居ぬ間の関ヶ原

立花宗茂は関ヶ原本戦に参加していないにもかかわらず、立花が実は陰の主人公。
関ヶ原の日程を決めた男。立花が強すぎたので家康が判断した。
関ヶ原の勝敗は立花の動向にかかっていた。

宗茂は戦国で奇跡の敗者復活を演じた。

実の父と養父と二人ともずば抜けてレベルが高かった。
実父は掌を指すように相手の心が読めたという。
養父は37回無敗
二人の父に引き上げられた能力の高さがあるのではないか。

九州はとりわけ戦いのレベルが高い地域。
島津の侵攻を受ける地域はハイレベルな軍事集団なので、なまじの強さでは生き残れない。
ここで小国で生き残るということは奇跡に近い。
九州は当時文明の窓口、日本で最も先進的な地域。鉄砲も、戦術も洗練されていく。
日本史上、はじめて大筒を使用した攻城戦。


情報公開、情報共有、家臣を大事にする。
柳川古文書館にはどのくらい藩でも見たことがない資料があった。
歴代の戦死者名簿があって、毎年供養し続けていた。
日本史上で稀有な集団だった。

2022-08-25

英雄たちの選択~義仲

なるほどね~。義仲と義経がいたから平家は滅びた
2人とも軍事の天才だった。

「地方の怒り 都を制圧す!~木曾義仲の野望と挫折~」

<源平合戦のさなか、すい星のように登場した天才武将・木曽義仲。
倶利伽羅(くりから)峠の戦いで平家の大軍を破り都を制圧する。
支えたのは中央に対する地方の怒りだった。

木曽義仲の躍進を支えたのは地方から収奪しか行わない都への怒りだった。
しかし都を占領した義仲を待ち構えていたのは、大飢饉による食糧不足。
配下の義仲軍も略奪をはじめ、たちまち評判を落としてゆく。
義仲は後白河法皇から高い官位を得ることで配下の武士たちを統制しようとするが、それこそ都の魔力だった。
後白河の巧みな政治力に翻弄され、平家、鎌倉の頼朝と二正面作戦を強いられる。
絶体絶命の危機を脱出する術はあるか。>

反乱軍が地方から都を制圧する最初が義仲
都から見たら、義仲と平家と鎌倉の頼朝で三つ巴になっている。まるで中国の三国志のようだ
義仲の挙兵
西国の干ばつ、飢饉、
北陸の年貢の取り立て強化によって恨みを買う。不満分子の勢力を束ねる。
北陸の米がないと都の人口は維持できない。朝廷や都からの収奪にさらされる
北陸は都の食料庫
当時の海上交通は日本海側が主要
商品流通を押さえる意味では北陸を拠点にするのは大正解


戦国時代と違って、何らかの正当性が必要。北陸の宮、鎌倉の皇族将軍

勢いに乗って上洛を果たす
平家都落ち;安徳天皇を伴う

平家の軍勢がいなくなって治安が悪化:略奪が横行
義仲は都の警備を期待され一任
しかし義仲軍も略奪、大飢饉により義仲軍を支える食糧も物資も残っていなかった。評判を落とす
当時、戦国時代まで兵站という感覚がなかった。現地調達主義
平家も都から食糧を持って逃げた。そこへ入ってきたから無理

さらに法皇と対立。次期天皇をめぐって。
一介の武士が皇位に口を挟むのは異例。北陸宮を推挙

京都の魔力を甘く見すぎ
だから頼朝は京都に近づかなかった


都が難しいことを小さい頃からよく分かっているので、簡単には手を出さない

頼朝は自分,鎌倉を支える文官を貪欲に求める。
でも義仲の側にそういう人達がいたのかな?
彼が本当にやるべきは京都の様子に明るい人をブレーンとして作っていくらことが重要だった

だから未熟なままで京に進入してしまった
同時に政治的駆け引きが未経験で非常に稚拙
そういうところが結局後白河法皇に政治的に翻弄される原因

平家追討に出陣
義経上洛~後白河法皇の差し金

義仲は法皇の住み家を襲撃,法皇をとらえ幽閉
法皇から政権を奪う
しかし朝廷に反旗を翻しておきながら、権威だけを利用するのは道理が通らない
都の近隣の勢力は鎌倉に寝返り、北陸で加勢した軍勢も離散
残ったのは最初に木曽で挙兵した僅かな手勢のみ

義仲は軍人、頼朝は政治家だった。
革命が成り立つには優れた軍人と優れた政治家が必要。
頼朝には義経がいた。政治的天才が鎌倉にいて、義経が転戦して育成という構造は強い。


北陸の宮を戴いて、京都の朝廷にも能力を発揮出来ずに不遇をかこっている人がいる。
そういう人を連れて北陸へ落ちて、北陸幕府を開けばよかった。


南北朝に近いような第三勢力を持って、しばらくおれたら、また状況は大きく変わる。
義仲は自分がやれることとやれないことの自己分析が足りなかった。
何がやりたいのか?
幕府を開きたいのか?日本のトップになりたいのか?
京に一緒にいるのでは無理。

この時のキーマン。後白河法皇で、彼はもう一度平家と同じような存在が現れることがとにかく嫌。
ゲームプランを持つべき。交渉であれ、戦であれ。
彼にはゲームプランがないのではないか。勢いとその場限りの決断があるだけ。
ゲームプランのなさが彼を滅亡へ導いていったのではないか?

何故ゲームプランがなかったのか?

あまりにも時間がなかったんでしょうね。急激に膨張して京都に入ったからね。

歴史に躍り出て、亡くなるまで3年ですからね。
本当に僅かな期間しか活躍しなかったから、あまりにも生き急ぎ過ぎたというところがあるのかもしれない。
義仲の功績
時代がすごい勢いで動いていくのは義仲の功績。
義仲が北陸で動かなかったら、4すくみで時代が動かなかったかもしれない可能性が高い。
戦にはめっぽう強い無礼者が京都を制圧したということの意味は大きかった。
軍事貴族ではなくて、本当の意味での武士の時代を扉を蹴破るように開いていった。


日本人の3人の法則
義仲が倒れたのを頼朝は後ろで見ている。
同じことは信長が何をやったら駄目出しかを家康は見ていて、
秀吉が何をやったら駄目かを見ていて、3人目の家康が取ると。

日本は古い構造社会の上に立っているので、2歩も3歩も進んだ人は倒れて不幸に終わる。
半歩だけ進んだその後を歩く人間が果実を持っていくのが人間社会の構造かなと。
義仲はファーストペンギンだった

そういう生き方が後に松尾芭蕉の心を捉える
したたかさが足りないところが愛おしい。友達になりたい。一緒に酒を飲むのがいい。家来にはなりたくない
大津市。毎年義仲の命日には義仲を愛する人たちが義仲寺に集まり供養を行っている。
「木曽のな~なかのりさん」
実は木曽節は義仲、弔うために作られたもので昔は歌詞が違ったと、義仲の子孫は語る
木曽の義仲さん~だった。


【司会】磯田道史,杉浦友紀,
【出演】本郷和人,加来耕三,宮崎哲弥,

2022-08-20

真田丸~最古の絵図

真田丸
詳細な最古絵図 松江で発見

松江市は12日、大坂冬の陣(1614年)で戦国武将、真田信繁(幸村)が大坂城の南側に築いた「真田丸」を詳細に描いた最古とみられる絵図「大坂 真田丸」(縦27.8センチ、横40.6センチ)が見つかったと発表した。絵図には真田丸の中に「出丸」(出城)などが描かれていた。絵図の調査を担当した奈良大の千田嘉博学長(城郭考古学)は「真田丸が大坂城の付属施設でなく、独立した城だったと考えられる」としている。
2016/7/12
https://mainichi.jp/articles/20160713/k00/00m/040/081000c

見つかった絵図は、全国の主な城下町を描いた絵図74枚をまとめた「極秘諸国城図」の1枚。所有していた市民が昭和28年、市に寄贈し、現在は同館が所蔵。今年2月にこの中の別の絵図を調査していた際、見つかった。

 雁皮紙(がんびし、27・8センチ×40・6センチ)が使われ、絵図を包んでいた紙に元禄の表記があり、絵図は真田丸がすでに破壊された後の元禄年間かそれ以前の制作とみられる。松江藩が原本を基に、現地の観察も交えて藩士に描かせたとみられる。

 絵図には、南側の堀に「惣構(そうがまえ)堀」と記され、ここが真田丸の一番外側だったと分かる。また、北側の小さな曲輪(くるわ)に「出丸」とあり、その東側に腰曲輪が描かれるなど、描写や記述が具体的だ。

 真田丸に詳しい千田嘉博・奈良大学長(城郭考古学)は「実態が不明な真田丸の規模や形状がより詳細に分かる貴重な発見。単なる大坂城南側の付属施設ではなく、独立した出城だった可能性が高まった」と話している。
https://www.sankei.com/article/20160712-KBZFVZT2RVP63PAGQTYFEIB6HM/

松江歴史館「真田丸」絵図で真田丸を探せ
http://osakakoteisa.blog.fc2.com/blog-entry-41.html?sp
プロフィール

アシーン

Author:アシーン
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード