2015-03-21
ペルシア2015-9 スーサの博物館




フランスの城だけが偉そうにでんとそびえている。
なんでも発掘調査のために建てたのだそうだ。
しかもこれは遺物で建てたそうだ。ひどい!
いたるところに楔型文字の残っている煉瓦があった。
彩色されたものもあった。
あんまり涼しくて快適なので、ガイドさんも大喜び。
過酷な時期しか来たことがないそうで。


博物館は小さい。図録なし
わずかに牡牛の柱頭、
遺跡の模型、
ルーブル美術館にある壁画のレプリカが2、3展示されているが、
有名な出土品が沢山出た現場としては
あまりにも弱い。
気の毒なくらい。



やる気もなさそう。
ガイドさんによると、
古い遺跡は山のようにあるから、
いちいち気にしていないとのこと。
でももったいないよ。
ハンムラビ法典碑のとか、もっと色々とレプリカとか、
復元模型を展示するといいと思いました。

お昼は遺跡のすぐ側のレストラン。
ゴルメサブジありました。
シューシュShush
<古代エラムの都城址。
遺跡は 1km2にわたる領域にあるいくつかのテペ (人工丘) から成る。
発掘は 19世紀中葉より,W.ロフタス (1851~53) ,J.モルガン (97~1912) らによって行われ,
1946年以降は,R.ギルシュマンが発掘を主導。>
ブリタニカ国際大百科事典
<スーサの歴史は古く、
アクロポリスからは紀元前4000年にまで遡る神殿跡が発掘されている。
紀元前30世紀から紀元前7世紀に跨がるエラム王国の首都であった。
紀元前647年、アッシリアのアッシュールバニパルによって破壊された
紀元前540年、アケメネス朝ペルシャの王ダレイオス1世に占領されてエラムは滅んだが、
王宮が置かれて王の道の起点として再び栄えた。
ダレイオスが紀元前331年のガウガメラの戦いで
マケドニア王国のアレクサンドロス3世に敗れて
アケメネス朝が滅んだ後、
紀元前324年、アレクサンドロスは帝国内の安定を図ろうと
家臣と征服部族とのスーサの合同結婚式を行ったとの記録がある。>
wiki
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%BC%E3%82%B5
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