2018-07-24
『西郷どん』
『西郷どん』感想&小解説(第27回) ―西郷書簡から見た禁門の変―
<確かに、西郷と大久保の二人が薩摩藩の明治維新の原動力となったことは間違いありません。そして、彼らの残した功績は偉大であると言えます。
しかしながら、最近の研究において、島津久光や小松帯刀といった、西郷と大久保の二人を導き、そして支えた存在がいかに大きく、そして重要であったのかが明らかになってきているように、西郷と大久保の活躍だけで歴史を動かせたわけがなく、彼らを取り巻く様々な人物の協力や支援があってこそ、二人は縦横無尽に活躍でき、幕末という大きな歴史を動かせたと言えます。
当時の西郷は小松の判断なしに、独断で事を進められる状態にはなく、当時京に居た薩摩藩要人の中心人物は、西郷ではなく、小松であったことが分かります。
町田明広「元治元年前半の薩摩藩の諸問題:小松帯刀の動向を中心に」(神田外語大学日本研究所紀要7巻、2015年)には、
「通説では、薩摩藩は西郷・大久保に率いられ、久光は利用されたのみの存在とされてきたが、実際には「久光―小松体制」の下で西郷・大久保は活躍していたのであり、この点は看過してはならない」
当時の久光は薩摩藩内では絶対的な存在です。
久光を動かさずして、薩摩藩は動きませんので、西郷は自らの本懐を遂げ、そして斉彬の大恩に報いるためには、個人的な感情をもって久光に接するべきでは無いということを深く心に刻んだのだと思います。
当時の薩摩藩にとって、慶喜は最も警戒すべき存在であったと思われます。>
http://keitenaijin924.blog.fc2.com/blog-entry-137.html
(第26回) ―西郷の赦免と上京―
<どのようにして久光の怒りが解け、西郷が鹿児島に呼び戻されることになったのか
正風は斉彬を引き合いに出し、「斉彬公が西郷を認められたのに、それを久光公が認めないということは、斉彬公の目が節穴であったということですね」と、逆に責めたわけです。
西郷の最大の強みは、薩摩では神格化されていた斉彬に登用されたことであり、そしてそれは同時に、久光のウィークポイントともなったと言えるかもしれません。
西郷が京に着いたこの日は、久光の朝議参予の辞任が聴許された日でもありました。
、「参予会議(制度)」は、久光が公武融和策の大きな柱として構想し、そして力強く推進した、いわば「一丁目一番地」の政策であり、久光が情熱を込めて、その実現に尽力したものでした。
それがこの日に完全に瓦解したわけですから、久光の失意は想像するに余りあります。
やり切れないのは久光です。
当時の久光は、幕府を軽んじたり、また敵視したりするどころか、日本のために統治機構としての幕府は必要な存在であることを認め、朝廷と幕府を融和させた政治を実現するため、懸命にその間を周旋しようと手を尽くしていました。
そこには後年のような幕府否定論は全くなく、幕府のためを思えばこその周旋であったのですが、当事者の幕府は、その久光を毛嫌い、そして信用・信頼せず、常に猜疑心を持って接していたため、幕府は最終的に参予会議を壊す方向に舵を切ったのです。
その参予会議が崩壊したことにより、諸藩の幕府離れは一層加速され、久光の心は反幕へと傾いていきます。
そう考えると、幕府は自分で自分の首を絞めたとも言えます。
参予会議は、幕府にとっても、そして薩摩藩にとっても、非常に重要なターニングポイントだったと言えましょう。
政治とは、挫折と改革を繰り返して成熟していくものであり、その不断の努力によって結実したのが明治維新であったと言えますが、当時の久光は根気よく政治活動を続け、参予会議の発足と運営に力を尽くしました。
そのような日本の将来を見据えての久光の奮闘が全く描かれなかったのはとても残念です。>
http://keitenaijin924.blog.fc2.com/blog-entry-136.html
粒山 樹氏のブログより
<確かに、西郷と大久保の二人が薩摩藩の明治維新の原動力となったことは間違いありません。そして、彼らの残した功績は偉大であると言えます。
しかしながら、最近の研究において、島津久光や小松帯刀といった、西郷と大久保の二人を導き、そして支えた存在がいかに大きく、そして重要であったのかが明らかになってきているように、西郷と大久保の活躍だけで歴史を動かせたわけがなく、彼らを取り巻く様々な人物の協力や支援があってこそ、二人は縦横無尽に活躍でき、幕末という大きな歴史を動かせたと言えます。
当時の西郷は小松の判断なしに、独断で事を進められる状態にはなく、当時京に居た薩摩藩要人の中心人物は、西郷ではなく、小松であったことが分かります。
町田明広「元治元年前半の薩摩藩の諸問題:小松帯刀の動向を中心に」(神田外語大学日本研究所紀要7巻、2015年)には、
「通説では、薩摩藩は西郷・大久保に率いられ、久光は利用されたのみの存在とされてきたが、実際には「久光―小松体制」の下で西郷・大久保は活躍していたのであり、この点は看過してはならない」
当時の久光は薩摩藩内では絶対的な存在です。
久光を動かさずして、薩摩藩は動きませんので、西郷は自らの本懐を遂げ、そして斉彬の大恩に報いるためには、個人的な感情をもって久光に接するべきでは無いということを深く心に刻んだのだと思います。
当時の薩摩藩にとって、慶喜は最も警戒すべき存在であったと思われます。>
http://keitenaijin924.blog.fc2.com/blog-entry-137.html
(第26回) ―西郷の赦免と上京―
<どのようにして久光の怒りが解け、西郷が鹿児島に呼び戻されることになったのか
正風は斉彬を引き合いに出し、「斉彬公が西郷を認められたのに、それを久光公が認めないということは、斉彬公の目が節穴であったということですね」と、逆に責めたわけです。
西郷の最大の強みは、薩摩では神格化されていた斉彬に登用されたことであり、そしてそれは同時に、久光のウィークポイントともなったと言えるかもしれません。
西郷が京に着いたこの日は、久光の朝議参予の辞任が聴許された日でもありました。
、「参予会議(制度)」は、久光が公武融和策の大きな柱として構想し、そして力強く推進した、いわば「一丁目一番地」の政策であり、久光が情熱を込めて、その実現に尽力したものでした。
それがこの日に完全に瓦解したわけですから、久光の失意は想像するに余りあります。
やり切れないのは久光です。
当時の久光は、幕府を軽んじたり、また敵視したりするどころか、日本のために統治機構としての幕府は必要な存在であることを認め、朝廷と幕府を融和させた政治を実現するため、懸命にその間を周旋しようと手を尽くしていました。
そこには後年のような幕府否定論は全くなく、幕府のためを思えばこその周旋であったのですが、当事者の幕府は、その久光を毛嫌い、そして信用・信頼せず、常に猜疑心を持って接していたため、幕府は最終的に参予会議を壊す方向に舵を切ったのです。
その参予会議が崩壊したことにより、諸藩の幕府離れは一層加速され、久光の心は反幕へと傾いていきます。
そう考えると、幕府は自分で自分の首を絞めたとも言えます。
参予会議は、幕府にとっても、そして薩摩藩にとっても、非常に重要なターニングポイントだったと言えましょう。
政治とは、挫折と改革を繰り返して成熟していくものであり、その不断の努力によって結実したのが明治維新であったと言えますが、当時の久光は根気よく政治活動を続け、参予会議の発足と運営に力を尽くしました。
そのような日本の将来を見据えての久光の奮闘が全く描かれなかったのはとても残念です。>
http://keitenaijin924.blog.fc2.com/blog-entry-136.html
粒山 樹氏のブログより
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