2018-07-30
『西郷どん』
(第28回) ―西郷の対長州政策の転換―
<第一次長州征討における西郷の働きは、彼の生涯の中においても、最も輝かしい功績の一つであり、また、西郷の存在感を世に知らしめた、まさに西郷の真骨頂を発揮したものであったと言えます。
禁門の変後の長州藩内は、俗に「薩賊会奸(さつぞくかいかん)」という言葉で表現されるように、薩摩藩や会津藩を憎むこと甚だしかったと言えます。
少しさかのぼると、文久3(1863)年12月24日、下関海峡を通航していた薩摩藩の商船・長崎丸が、長州藩から砲撃を加えられ、焼失する事件が生じるなど、八月十八日の政変をきっかけとした薩長両藩の確執は、とても根深いものがありました。
このような状況下の最中、西郷は第一次長州征討の談判のために、周囲の反対を押し切って、奇兵隊をはじめとする長州諸隊の幹部連中と会うため、小倉から長州の下関へと渡りました。
勝田孫弥『西郷隆盛伝』には、「馬關の海峡は薩人の為めには正に三途の川なり」と、征長副総督らが西郷の身を危ぶんだとあるほど、それは非常に危険な行動であったのです。
西郷が下関に渡ったのは、征長軍の解兵条件の一つであった、三条実美以下五卿の動座(移転)を実現するため、それに反対している諸隊の幹部連中に直接会い、彼らを説得するためでした。
西郷の行動は、まさに「虎穴に入らずんば、虎子を得ず」という故事を実践するかのような、死を賭した大胆なものであったと言えます。
しかしながら、西郷は「薩摩憎し」で凝り固まっていた諸隊の幹部連中を説得することに成功し、五卿動座を承諾させ、第一次長州征討を平和的な解決へと導いたのです。>
粒山 樹氏
http://keitenaijin924.blog.fc2.com/blog-entry-138.html
町田 明広先生のつぶやきより
<本日は勝海舟・坂本龍馬との出会い、勝に感化される西郷、西郷最大の功績・第1次長州征伐が描かれました。
西郷と慶喜の絡みは緊迫感ある展開でしたが、ドラマとして面白かったですね(^^)
https://twitter.com/machi82175302/status/1023536806141222912
元治元年(1864)7月に勃発した禁門の変直後の長州藩に対する薩摩藩の方針は、小松帯刀を中心に西郷隆盛・吉井友実・伊地知正治の在京要路の認識に基づいており、将軍家茂の進発を前提とした強硬論であり、実際の戦闘を体験している在京藩士が即時征討を唱えるのは当然であろう。#西郷どん
https://twitter.com/machi82175302/status/1023537004359835649
西郷らの強硬論は当たり前であり、中央政局の雰囲気そのものであった。しかし、将軍進発は宣言されたものの、容易に実現する気配はなく、征討総督の人選も二転三転して難航したが、総督に前尾張藩主徳川慶勝、副将に越前藩主松平茂昭が指名された。#西郷どん
https://twitter.com/machi82175302/status/1023537069669343232
西郷・勝会談は、勝が西郷に幕府の内情を暴露したと同時に、その後の薩摩藩の国事周旋への示唆を与えたことに重要性があり、だからこそ西郷は勝を甚だ深く信頼したのだ。ところで、西郷と龍馬の初対面はいつだったのか?恐らく、西郷・勝会談前の8月中旬頃らしいが詳細は実は不明。。#西郷どん
https://twitter.com/machi82175302/status/1023538394033315841
なお、安政5年(1858)3月15日、確かに島津斉彬は勝と鹿児島で対面している。横にいる久光を「博聞強記(何でも知っていて、記憶力が抜群)で志操方正(強靱な意志、端正な性格)なところには、とても及ばない」と勝に紹介している。#西郷どん
https://twitter.com/machi82175302/status/1023538886021079040
西郷にはぶれがなく強硬路線で一定していたが、小松上京を契機に薩摩藩の長州征伐の方針は変化する。実は、小松の帰藩中にその後の薩摩藩の政治的スタンスを規定する大きな方針の決定があった。その契機は黒田清綱の建言であり、幕府が忌み疑うところは薩長二藩が強盛になることと主張した
https://twitter.com/machi82175302/status/1023539464696606720
黒田清綱は続けて、以前より薩長両雄を戦わせる施策は往々にして見られたが、今回は薩摩藩を先鋒として使役させ、藩の勢威を削ぎ落す底意である。長州藩の恨みを薩摩藩に及ぼそうとの魂胆であることは疑いなく、今回の長州征伐では先鋒を辞退した上で戦功を立てることを主張した。
https://twitter.com/machi82175302/status/1023539601795776512
黒田清綱は幕府の奸計によって藩の勢威が損なわれ、滅亡に追い込まれる危惧を示して至急の対応を求めたが、もともと、久光には甚大な戦費の調達による疲弊は回避すべきとの認識があり、それ以上に幕府の奸計によって、長州征伐の次は薩摩征伐が実行される可能性を強く意識していた
https://twitter.com/machi82175302/status/1023539720398094336
久光は藩地に割拠して富国強兵を図り、諸藩連合を模索するという藩是に大きく修正し、禁闕守衛を最優先としてきた薩摩藩が、長州征伐を機に中央政局から撤退し、薩摩藩自体の富国強兵を企図して割拠する強い志向を打ち出し、しかも、小松・西郷ら要路の帰藩という思いきった方針示された。
https://twitter.com/machi82175302/status/1023539971309748224
西郷は吉井らを伴って12月11日夜に下関に渡海し、翌日に諸隊幹部赤禰武人・中岡慎太郎、五卿従士水野丹後らと会談、西郷が解兵後の五卿動座を了解したため、諸隊との合意が成立した。西郷の殺されかねない状況下で敵陣に飛び込み、談判に持ち込むこのスタイルは、ここでは成功を収めた。#西郷どん
https://twitter.com/machi82175302/status/1023545356489912320
西郷は、現状を殊の外心配する慶勝に意見を尋ねられ、長州藩内の内乱は度外視すべきであるとの見解を示した。そして、従軍諸藩が解兵は近いことを期待しており、この上虚しく滞陣を続けた場合、諸藩の中から幕命を待たずに、兵を引き揚げる藩も出ることは否定できないと慶勝に迫った。#西郷どん
https://twitter.com/machi82175302/status/1023545865707839490
西郷は万が一そのようなことになれば、総督府の威厳を損なうことは計り知れず、五卿の扱いは九州諸藩に命じたので、解兵以前に動座が叶わずとも決して不都合ではないとして切に解兵を要望した。慶勝は西郷の建言を受け入れて解兵を宣言しており、西郷の尽力なくして、実現は不可能であった。#西郷どん
https://twitter.com/machi82175302/status/1023546021643579393
薩摩藩が長州藩とともに薩長とくくられて、容保に警戒されていることは見逃せない。征討を受けた長州藩同様に、薩摩藩が幕府勢力から危険視され始めていた。こうして幕府の不満をよそに、第一次長州征伐は一回の交戦もなく、官軍の撤兵となった。その最大の功労者は間違いなく西郷であった。#西郷どん
https://twitter.com/machi82175302/status/1023546785413750784
西郷は慶勝の信任の下、早期解兵に向けた周旋を事実上一人で実行し成し遂げた。安政期の西郷は、斉彬の威を借りての活動であったが、今回は薩摩藩がバックにあるとは言え、西郷の才覚でなし得たものである。西郷がなければ、長州藩は滅んでいた。西郷は名実ともに、幕末のヒーローとなった。#西郷どん
https://twitter.com/machi82175302/status/1023546915508518918
<第一次長州征討における西郷の働きは、彼の生涯の中においても、最も輝かしい功績の一つであり、また、西郷の存在感を世に知らしめた、まさに西郷の真骨頂を発揮したものであったと言えます。
禁門の変後の長州藩内は、俗に「薩賊会奸(さつぞくかいかん)」という言葉で表現されるように、薩摩藩や会津藩を憎むこと甚だしかったと言えます。
少しさかのぼると、文久3(1863)年12月24日、下関海峡を通航していた薩摩藩の商船・長崎丸が、長州藩から砲撃を加えられ、焼失する事件が生じるなど、八月十八日の政変をきっかけとした薩長両藩の確執は、とても根深いものがありました。
このような状況下の最中、西郷は第一次長州征討の談判のために、周囲の反対を押し切って、奇兵隊をはじめとする長州諸隊の幹部連中と会うため、小倉から長州の下関へと渡りました。
勝田孫弥『西郷隆盛伝』には、「馬關の海峡は薩人の為めには正に三途の川なり」と、征長副総督らが西郷の身を危ぶんだとあるほど、それは非常に危険な行動であったのです。
西郷が下関に渡ったのは、征長軍の解兵条件の一つであった、三条実美以下五卿の動座(移転)を実現するため、それに反対している諸隊の幹部連中に直接会い、彼らを説得するためでした。
西郷の行動は、まさに「虎穴に入らずんば、虎子を得ず」という故事を実践するかのような、死を賭した大胆なものであったと言えます。
しかしながら、西郷は「薩摩憎し」で凝り固まっていた諸隊の幹部連中を説得することに成功し、五卿動座を承諾させ、第一次長州征討を平和的な解決へと導いたのです。>
粒山 樹氏
http://keitenaijin924.blog.fc2.com/blog-entry-138.html
町田 明広先生のつぶやきより
<本日は勝海舟・坂本龍馬との出会い、勝に感化される西郷、西郷最大の功績・第1次長州征伐が描かれました。
西郷と慶喜の絡みは緊迫感ある展開でしたが、ドラマとして面白かったですね(^^)
https://twitter.com/machi82175302/status/1023536806141222912
元治元年(1864)7月に勃発した禁門の変直後の長州藩に対する薩摩藩の方針は、小松帯刀を中心に西郷隆盛・吉井友実・伊地知正治の在京要路の認識に基づいており、将軍家茂の進発を前提とした強硬論であり、実際の戦闘を体験している在京藩士が即時征討を唱えるのは当然であろう。#西郷どん
https://twitter.com/machi82175302/status/1023537004359835649
西郷らの強硬論は当たり前であり、中央政局の雰囲気そのものであった。しかし、将軍進発は宣言されたものの、容易に実現する気配はなく、征討総督の人選も二転三転して難航したが、総督に前尾張藩主徳川慶勝、副将に越前藩主松平茂昭が指名された。#西郷どん
https://twitter.com/machi82175302/status/1023537069669343232
西郷・勝会談は、勝が西郷に幕府の内情を暴露したと同時に、その後の薩摩藩の国事周旋への示唆を与えたことに重要性があり、だからこそ西郷は勝を甚だ深く信頼したのだ。ところで、西郷と龍馬の初対面はいつだったのか?恐らく、西郷・勝会談前の8月中旬頃らしいが詳細は実は不明。。#西郷どん
https://twitter.com/machi82175302/status/1023538394033315841
なお、安政5年(1858)3月15日、確かに島津斉彬は勝と鹿児島で対面している。横にいる久光を「博聞強記(何でも知っていて、記憶力が抜群)で志操方正(強靱な意志、端正な性格)なところには、とても及ばない」と勝に紹介している。#西郷どん
https://twitter.com/machi82175302/status/1023538886021079040
西郷にはぶれがなく強硬路線で一定していたが、小松上京を契機に薩摩藩の長州征伐の方針は変化する。実は、小松の帰藩中にその後の薩摩藩の政治的スタンスを規定する大きな方針の決定があった。その契機は黒田清綱の建言であり、幕府が忌み疑うところは薩長二藩が強盛になることと主張した
https://twitter.com/machi82175302/status/1023539464696606720
黒田清綱は続けて、以前より薩長両雄を戦わせる施策は往々にして見られたが、今回は薩摩藩を先鋒として使役させ、藩の勢威を削ぎ落す底意である。長州藩の恨みを薩摩藩に及ぼそうとの魂胆であることは疑いなく、今回の長州征伐では先鋒を辞退した上で戦功を立てることを主張した。
https://twitter.com/machi82175302/status/1023539601795776512
黒田清綱は幕府の奸計によって藩の勢威が損なわれ、滅亡に追い込まれる危惧を示して至急の対応を求めたが、もともと、久光には甚大な戦費の調達による疲弊は回避すべきとの認識があり、それ以上に幕府の奸計によって、長州征伐の次は薩摩征伐が実行される可能性を強く意識していた
https://twitter.com/machi82175302/status/1023539720398094336
久光は藩地に割拠して富国強兵を図り、諸藩連合を模索するという藩是に大きく修正し、禁闕守衛を最優先としてきた薩摩藩が、長州征伐を機に中央政局から撤退し、薩摩藩自体の富国強兵を企図して割拠する強い志向を打ち出し、しかも、小松・西郷ら要路の帰藩という思いきった方針示された。
https://twitter.com/machi82175302/status/1023539971309748224
西郷は吉井らを伴って12月11日夜に下関に渡海し、翌日に諸隊幹部赤禰武人・中岡慎太郎、五卿従士水野丹後らと会談、西郷が解兵後の五卿動座を了解したため、諸隊との合意が成立した。西郷の殺されかねない状況下で敵陣に飛び込み、談判に持ち込むこのスタイルは、ここでは成功を収めた。#西郷どん
https://twitter.com/machi82175302/status/1023545356489912320
西郷は、現状を殊の外心配する慶勝に意見を尋ねられ、長州藩内の内乱は度外視すべきであるとの見解を示した。そして、従軍諸藩が解兵は近いことを期待しており、この上虚しく滞陣を続けた場合、諸藩の中から幕命を待たずに、兵を引き揚げる藩も出ることは否定できないと慶勝に迫った。#西郷どん
https://twitter.com/machi82175302/status/1023545865707839490
西郷は万が一そのようなことになれば、総督府の威厳を損なうことは計り知れず、五卿の扱いは九州諸藩に命じたので、解兵以前に動座が叶わずとも決して不都合ではないとして切に解兵を要望した。慶勝は西郷の建言を受け入れて解兵を宣言しており、西郷の尽力なくして、実現は不可能であった。#西郷どん
https://twitter.com/machi82175302/status/1023546021643579393
薩摩藩が長州藩とともに薩長とくくられて、容保に警戒されていることは見逃せない。征討を受けた長州藩同様に、薩摩藩が幕府勢力から危険視され始めていた。こうして幕府の不満をよそに、第一次長州征伐は一回の交戦もなく、官軍の撤兵となった。その最大の功労者は間違いなく西郷であった。#西郷どん
https://twitter.com/machi82175302/status/1023546785413750784
西郷は慶勝の信任の下、早期解兵に向けた周旋を事実上一人で実行し成し遂げた。安政期の西郷は、斉彬の威を借りての活動であったが、今回は薩摩藩がバックにあるとは言え、西郷の才覚でなし得たものである。西郷がなければ、長州藩は滅んでいた。西郷は名実ともに、幕末のヒーローとなった。#西郷どん
https://twitter.com/machi82175302/status/1023546915508518918
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