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2018-08-16

『西郷どん』

ドラマと史実の間が面白いです。

(第30回) ―岩倉具視と薩摩藩―

ドラマの展開、時系列的には慶応元年(1865)2月から4月か。この間、西郷が岩倉具視と面会しているかは分からないが、可能性は極端に低い。大久保の面会も無理があるか。西郷が上京後、薩摩藩士以外で最も面談した人物は、土佐浪士の土方楠左衛門である。#西郷どん
https://twitter.com/machi82175302/status/1028608782564175872

西郷は2月6日に鹿児島を後にして京都に向かった。当時、大久保利通は在京して、幕府が命じた参勤交代・諸侯妻子在府の復旧および毛利父子・五卿の東行を中止させる活動を行っており、西郷はその援護射撃するため上京する予定であったが、五卿の待遇改善を求めるため、大宰府経由となった。#西郷どんhttps://twitter.com/machi82175302/status/1028608951464554496

ただし、福岡藩はこの直後、親幕府派が藩政を牛耳り、乙丑の獄によって尊王派を根こそぎにしてしまった。これにより、西郷が企図した薩摩・長州・福岡の三藩連合は慶応元年段階で頓挫してしまった。#西郷どんhttps://twitter.com/machi82175302/status/1028609289756131328

江戸の幕府本体の一会桑勢力、特に慶喜への警戒心が尋常なレベルでないことは注視すべき点である。なお、ドラマでは慶喜が将軍家茂からの書状を破り捨てていたが、さすがに。。#西郷どんhttps://twitter.com/machi82175302/status/1028609918016794625

二条の強気の背後に薩摩藩あり。https://twitter.com/machi82175302/status/1028610194824019968

参勤交代・諸侯妻子在府の復旧および毛利父子・五卿の東行の中止が実現し、一方で福岡藩と連携した五卿の復権と朝威の回復が頓挫したことも相俟って、小松と西郷は4月22日に退京し、藩船胡蝶丸で25日に大坂を発して5月1日に鹿児島に帰藩した。なおこの時、坂本龍馬らを同行している。#西郷どんhttps://twitter.com/machi82175302/status/1028610467323760640

さて、小松は帰藩後、薩摩藩の慶応改革と呼べるような富国強兵策を推し進めた。更なる海軍力の向上を図るため、軍艦購入を積極的に進め、慶応元年中に龍田丸・開聞丸・萬年丸・三邦丸・桜島丸(長州藩から依頼)を、2年に大極丸、3年に春日丸を購入した。#西郷どんhttps://twitter.com/machi82175302/status/1028611405665067008https://twitter.com/machi82175302/status/1028611453010423808

集成館に機械工場を設置し、艦船の修理を可能とし、それにかかる日数や経費の削減を実現した。また、軍備強化のため、慶応元年閏5月には砲術館を再興し、6月に城下六組および水軍隊に砲術操練を実施する規則を定め、9月に陸海軍の充実を企図して兵器弾薬等の配給制を布達した。#西郷どん

大久保が再上京する閏5月10日まで約2ヶ月足らず、小松・西郷・大久保が在京していない。これは中央政局よりも藩地に割拠して、貿易の振興や軍事改革・武備充実による富国強兵を目指すとする藩是が優先されたことになる。#西郷どん
https://twitter.com/machi82175302/status/1028610620764053504

慶応2年5月には海軍方を設置し、海軍所(東郷平八郎が一期生)を開設するため、志願兵を公募するなど、制度、施設設備などの充実を目指した。更に、8月には陸軍操練所を設け、陸軍の改革を断行した。#西郷どんhttps://twitter.com/machi82175302/status/1028611558916538368

当時の薩摩藩の方針は、長州再征後の幕府の矛先が薩摩藩に向かうことへの警戒心から、久光は藩地に割拠して、貿易の振興や軍事改革・武備充実による富国強兵を目指し始めており、幕府から距離を置いて将来の戦闘に備えるという抗幕志向を明確にしていた。#西郷どんhttps://twitter.com/machi82175302/status/1028612003923812352

幕末から維新期にかけて、朝廷を代表する公家として、この間常に活躍できたのは三条実美と岩倉具視である。三条は摂関家に次ぐ名門の清華家の出であり、本人の意思にかかわらず、常に神輿のように担がれ、政局の中心に座り続けた。#西郷どん
https://twitter.com/machi82175302/status/1028613267210436609


岩倉具視は羽林家という下級の公家であり、本来は政治に関われる身分ではない。にもかかわらず、岩倉は自身の才覚で近習という孝明天皇の側近となり、天皇の信頼は抜群のものがあった。公家らしくない公家で、政治家・革命家として見た方が適切だろう。#西郷どんhttps://twitter.com/machi82175302/status/1028613378141388801

岩倉は近習という孝明天皇の側近であり、通商条約の勅許を忌避する天皇の意向を受け、八十八卿列参事件を主導し、島津久光の率兵上京の地ならしをしてくれた。また、和宮降嫁においては、そのフィクサーとして活躍し、朝廷権威の向上をもたらした。孝明天皇の信頼は抜群のものがあった。#西郷どん
https://twitter.com/machi82175302/status/1028613495221153793

しかし、尊王攘夷運動の隆盛とともに、余りにも出過ぎた活躍が他の廷臣、特に摂関家の嫉妬・警戒を招き、和宮降嫁を画策した岩倉に批判が集中し始め、朝廷内の権力抗争にも巻き込まれて失脚した(四奸二嬪排斥運動)。岩倉の政治生命は、本来であればこの段階で潰えたはずだった。#西郷どんhttps://twitter.com/machi82175302/status/1028613638733455360

孝明天皇はむしろ岩倉をかばい、その追放に最後まで反対した。また、その後も岩倉の赦免に理解を示し続けたが、反対派のために断念している。岩倉との関係は、決して悪くなかったのだ。#西郷どんhttps://twitter.com/machi82175302/status/1028613777497837568

ところで、岩倉の国家構想とは一体どのようなものだったのか、確認しておこう。幕末期から最終的には天皇親政を目指していたが、いくら弱体化してきたとはいえ、当時の幕府権力は絶対的なもので、岩倉も当初は公武合体策を推進した。#西郷どん
https://twitter.com/machi82175302/status/1028614357381304320

しかし、薩摩藩の国父・島津久光の率兵上京を機に、諸侯の後ろ盾を利用して、朝廷の権威向上を図った。幕府を単なる執行機関とし、重要な政令は朝廷から出そうとする天皇親裁を企図したのだ #西郷どんhttps://twitter.com/machi82175302/status/1028614401207619584

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