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2018-08-20

『西郷どん』

第31回) ―坂本龍馬の薩摩行き―
薩長同盟一つを取っても、龍馬が自主的な動きで両藩の仲を取り持とうとしたのではなく、実際は薩摩藩の指示のもとで活動していたことは最新の研究でも明らかになってきています。

当時幕府の軍艦奉行を務めていた勝海舟は、江戸への召喚命令を受け取りました。
この勝の江戸帰還により、当時勝が主宰していた神戸海軍塾も閉鎖を余儀なくされたことから、行き場を失った龍馬ら塾生達は、薩摩藩に庇護されることになります。

龍馬を中心とした土佐人は、当時脱藩者であったため、土佐へ帰国した場合、厳罰に処せられる可能性が高かったことから、勝はそのことを心配し、薩摩藩に彼らの庇護を頼んだのです。

当時は西郷よりも小松の方が、より龍馬と濃厚に接していたように思います。
前出の龍馬たちを引き受けた事情を記した小松の書簡に、「航海の手先に召しつかまつり候法は宜しかるべき」とあることから分かりますが、小松は龍馬ら海軍塾の塾生達を航海用の船夫として使おうと考えていました。
それは当時の小松が海軍の充実に執心していたからです。

http://keitenaijin924.blog.fc2.com/blog-entry-141.html

「西郷すっぽかし事件」について

西郷派遣は先に上京した大久保からの書簡による懇請に応えたとされるが、その通説は根拠がなく、そもそも、この大久保書簡は見当たらない。更に閏5月18日、西郷が佐賀関に到着した際、大久保から至急上京を求める書簡に接したため、木戸と会談することをキャンセルしたとする通説も疑わしい。#西郷どん
https://twitter.com/machi82175302/status/1031146445968011264

実はその書簡も、見当たらない
https://twitter.com/machi82175302/status/1031146598963662848

中岡慎太郎から西郷に、桂小五郎との会見の要請はあったものの、薩摩藩・西郷は時期尚早と捉え、その提案に同意しなかった。つまり、最初から西郷は木戸と会見する意向はなく、予定通り京都に向かったものであろう。#西郷どん
https://twitter.com/machi82175302/status/1031146655418961920

なお、西郷に梯子を外された桂小五郎が激怒したとされるが、これは土方楠左衛門の明治以降の後日談でしか確認できず、これもどこまでが事実であるかは断定できない。もちろん、失望はしたであろうが。。#西郷どん
https://twitter.com/machi82175302/status/1031147607521816576

こうした薩長間の仲を取り持った存在として、坂本龍馬が登場する。その背景として、薩摩藩の海軍は薩英戦争や長崎丸事件によって壊滅的なダメージを受けており、この時期、軍艦は手に入れたものの、乗組員の不足解消にはほど遠い状態が続いた。#西郷どん
https://twitter.com/machi82175302/status/1031147781845446656

小松帯刀と西郷は4月22日に退京し、藩船胡蝶丸で25日に大坂を発して5月1日に鹿児島に帰藩した時、坂本龍馬を同行している。龍馬がこの時、鹿児島のどこに滞在していたかは分からない。なお、龍馬は久光に謁見はしていない。しているのは、近藤長次郎。https://twitter.com/machi82175302/status/1031148138516471810

西郷らは龍馬に対し、薩摩藩が抗幕体制を採るにあたって、長州藩をパートナーにする意思があることを申し含めた上で、長州藩への情勢探索に派遣した。薩摩藩に仲間と共に庇護されている龍馬が、薩摩藩の要請を了解することは至極当然である。#西郷どんhttps://twitter.com/machi82175302/status/1031148563038785536

龍馬が薩長融和に尽力するのは、薩摩藩の意向に沿った周旋活動に他ならないのだ。ここに、薩摩藩士・龍馬としての履歴がスタートする。その龍馬の行動をサポートし、藩要路との連絡掛になったのが西郷であった。
https://twitter.com/machi82175302/status/1031148605124403200
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