2021-09-30
日本人の寿命の怪 4
<後藤新平
その半年後、休日を利用して首都移転の資料を読んでいた。首都を議論する際には、どうしても後藤新平を避けて通れない。
大正12年、帝都は未曾有の大地震に見舞われた、関東大震災である。
その年、帝都復興院総裁となったのが後藤新平であった。
彼は震災後の壮大な東京復興計画を立案し政府に提案したことで有名である。
後籐新平を本格的に調べ初めた。
何故、後籐新平が帝都復興院総裁に任命されたのかが納得いった。
彼は大震災の3年前の大正9年、東京市長になっていたのだ。
大正9年に東京市長になっていた!
と言うことは、大正10年、東京市で最初に水道水を塩素殺菌したときの市長であったのか?
事実そのとおり、後籐新平は東京市長であった。さかのぼって後藤新平の経歴を追ってみた。
後藤新平は「大風呂敷」というあだ名があったように、そのイメージは奔放であった。
台湾総督府民政長官や満鉄総裁時代に実行したインフラの整備が有名なため、法科か土木工学出身だと思い込んでいた。
彼は岩手県水沢市の下級藩士の家に生まれ、福島県須賀川医学校を卒業後、内務省衛生局に入っている。
そこで彼は自費でドイツに留学している。自費でドイツへ行った目的は「コッホ研究所」で細菌の研究をすることであった。
世界最初の細菌研究を成し遂げたあの「コッホ研究所」へ、後藤新平は自費で行っていた。
コッホ研究所で後藤新平は、医学博士号まで獲得している。
彼は当時の日本で北里柴三郎に匹敵する細菌学の権威者であった。
後籐新平の官界や政界での派手な活躍に目を奪われていたが、彼の人生の立脚点は細菌学であった。
細菌学の権威が東京市長だった。
夢中になって後藤新平の経歴を追った。彼は東京市長になる2年前、大正7年に外務大臣に就任していた。
大正7年はシベリア出兵があった年である。詳細に彼の動きを調べた。
なんと彼はシベリアへ行っていた!シベリアの現地に出向き、シベリア出兵作戦の中心人物でもあった。
細菌学の専門家・後藤新平は、そのシベリアで「液体塩素」と出会っていた。
その2年後、彼は東京市長となった。
東京市長になった後藤新平は、東京市の水道施設を視察した。
そこで細菌を大量に含んだ生水が、市民に向かって送り出されているのを目撃した。
それを目撃した後藤新平が「液体塩素で水道水を殺菌すべき」と考えたのは必然であった。
後籐新平は陸軍の横やりを抑え、国家機密である液体塩素を民生転用した。その転用する「権力」も備えていた。
すべてのジグソ-パズルのピースがはまった。謎がストーンと解けた。
偶然の文明
日本の安全な水の原点は、シベリア出兵と後藤新平にたどり着いた。
あのシベリア出兵がなかったら、この液体塩素の誕生はもっと先になっていた。
さらに後藤新平という人が、日本史の舞台に立っていなかったら、水道水の塩素殺菌はもっと先送りになっていた。
それまでの間、何十万人、何百万人の幼児が水道水で死ぬことになった。
「細菌学者」後藤新平は「シベリアで液体塩素」と出会った。
彼は「東京市長」となり、東京水道の現状を目撃した。
「権力」を握っていた彼は、陸軍を抑えて軍事機密の液体塩素を民生へ転用させた。
これらの条件の内、どの条件が欠けていても、大正10年に安全な水道水の誕生はなかった。
日本はこの大正10年から、世界でもまれな長寿大国へ向けてスタートを切った。
(図―3)で、水道の普及と平均寿命の関係を重ねた。
文明の大きな出来事も、このような小さな個人の運命の偶然の上に成り立っている。
何とも不思議な思いにつつまれてしまった。>
https://ieei.or.jp/2020/04/expl200413/
その半年後、休日を利用して首都移転の資料を読んでいた。首都を議論する際には、どうしても後藤新平を避けて通れない。
大正12年、帝都は未曾有の大地震に見舞われた、関東大震災である。
その年、帝都復興院総裁となったのが後藤新平であった。
彼は震災後の壮大な東京復興計画を立案し政府に提案したことで有名である。
後籐新平を本格的に調べ初めた。
何故、後籐新平が帝都復興院総裁に任命されたのかが納得いった。
彼は大震災の3年前の大正9年、東京市長になっていたのだ。
大正9年に東京市長になっていた!
と言うことは、大正10年、東京市で最初に水道水を塩素殺菌したときの市長であったのか?
事実そのとおり、後籐新平は東京市長であった。さかのぼって後藤新平の経歴を追ってみた。
後藤新平は「大風呂敷」というあだ名があったように、そのイメージは奔放であった。
台湾総督府民政長官や満鉄総裁時代に実行したインフラの整備が有名なため、法科か土木工学出身だと思い込んでいた。
彼は岩手県水沢市の下級藩士の家に生まれ、福島県須賀川医学校を卒業後、内務省衛生局に入っている。
そこで彼は自費でドイツに留学している。自費でドイツへ行った目的は「コッホ研究所」で細菌の研究をすることであった。
世界最初の細菌研究を成し遂げたあの「コッホ研究所」へ、後藤新平は自費で行っていた。
コッホ研究所で後藤新平は、医学博士号まで獲得している。
彼は当時の日本で北里柴三郎に匹敵する細菌学の権威者であった。
後籐新平の官界や政界での派手な活躍に目を奪われていたが、彼の人生の立脚点は細菌学であった。
細菌学の権威が東京市長だった。
夢中になって後藤新平の経歴を追った。彼は東京市長になる2年前、大正7年に外務大臣に就任していた。
大正7年はシベリア出兵があった年である。詳細に彼の動きを調べた。
なんと彼はシベリアへ行っていた!シベリアの現地に出向き、シベリア出兵作戦の中心人物でもあった。
細菌学の専門家・後藤新平は、そのシベリアで「液体塩素」と出会っていた。
その2年後、彼は東京市長となった。
東京市長になった後藤新平は、東京市の水道施設を視察した。
そこで細菌を大量に含んだ生水が、市民に向かって送り出されているのを目撃した。
それを目撃した後藤新平が「液体塩素で水道水を殺菌すべき」と考えたのは必然であった。
後籐新平は陸軍の横やりを抑え、国家機密である液体塩素を民生転用した。その転用する「権力」も備えていた。
すべてのジグソ-パズルのピースがはまった。謎がストーンと解けた。
偶然の文明
日本の安全な水の原点は、シベリア出兵と後藤新平にたどり着いた。
あのシベリア出兵がなかったら、この液体塩素の誕生はもっと先になっていた。
さらに後藤新平という人が、日本史の舞台に立っていなかったら、水道水の塩素殺菌はもっと先送りになっていた。
それまでの間、何十万人、何百万人の幼児が水道水で死ぬことになった。
「細菌学者」後藤新平は「シベリアで液体塩素」と出会った。
彼は「東京市長」となり、東京水道の現状を目撃した。
「権力」を握っていた彼は、陸軍を抑えて軍事機密の液体塩素を民生へ転用させた。
これらの条件の内、どの条件が欠けていても、大正10年に安全な水道水の誕生はなかった。
日本はこの大正10年から、世界でもまれな長寿大国へ向けてスタートを切った。
(図―3)で、水道の普及と平均寿命の関係を重ねた。
文明の大きな出来事も、このような小さな個人の運命の偶然の上に成り立っている。
何とも不思議な思いにつつまれてしまった。>
https://ieei.or.jp/2020/04/expl200413/
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