2022-01-08
マレーシア・イスラーム美術展 10
インドの細密画も素晴らしかったです~!
あんまり詳しくはないのですが、
最初にインドの細密画のナマを見たのが、やはりこの東博の東洋館でした。
それまで、本とかでは見たことはあっても、さほど心を動かされたことはなかったけど、
たまたまここの常設展で、ホンモノをはじめて見て、
ショックを受けました。とにかく繊細で美しい!
こんなスゴいものだったとは!
とはいえ、まだまだ不勉強なので、よくわからないのですが、
素晴らしいものが来ていました。
やっぱりホンモノの威力はスゴいです!

皇帝アウラングゼーブ騎馬像
インド デリー 17世紀初
ムガル帝国の第6代君主(在位:1658年 - 1707年)
第5代君主皇帝シャー・ジャハーン)とその妃ムムターズ・マハルの息子
あのタージ・マハールを建てた皇帝と葬られた妃の息子でした。
ムガル帝国全盛期の皇帝
<その崩御までに帝国の領土は最大となったが、
彼の崩御を契機に帝国は衰退・崩壊した。
1707年、ムガル皇帝アウラングゼーブの死後、
ムガル帝国では反乱が相次ぎ、
その広大な領土は徐々に解体されていったそうです。>

ナワーブ・ガーズィーッ=ディーン・ハイダル
インド ラクナウ 19世紀
北インド、アワド藩王国の7代目太守(ナワーブ) (在位:1814年 - 1827年)
ラクナウは、インドウッタル・プラデーシュ州の州都。
18世紀、アワド藩王国の首都として栄えた。ニューデリーの南東約500kmにある。
アワド太守
<ムガル帝国の北インド、アワド地方
(現在のガンジス川中流域、現ウッタル・プラデーシュ州東部を指す)の地方長官、
つまり太守(ナワーブ)のこと。
1801年以降はアワド藩王国となる。首府はファイザーバード、ラクナウ。
「アワド」という名前の由来は、ラーマ神誕生の地「アヨーディヤー」に由来し、
古来より数々の王朝がこの肥沃な地を領有した。
アワドの君主は様々な文化を保護し、アワドでは独自のイスラーム文化が培われ、
働き口が無くなったムガル帝国の画家をよく雇用して、
アウラングゼーブの治世に衰退したムガル絵画の復興も行われたとのこと
アワドは衰退したムガル帝国の後を継ぎ、
「アワドのムガル時代」といわれるような素晴らしい文化が作り上げられ、
ムガル帝国の首都デリーを凌駕する繁栄だった。
(4代目アーサフ・ウッダウラ, 在位:1775年 - 1797年)の頃)
しかその先代(3代目)の頃からイギリスへの従属化がすすみ、
莫大なイギリス軍の駐留費がかさみ、その後イギリスに併合される>
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AF%E3%83%89%E5%A4%AA%E5%AE%88#%E3%82%A2%E3%83%AF%E3%83%89%E3%81%AE%E8%97%A9%E7%8E%8B%E5%9B%BD%E5%8C%96
あんまり詳しくはないのですが、
最初にインドの細密画のナマを見たのが、やはりこの東博の東洋館でした。
それまで、本とかでは見たことはあっても、さほど心を動かされたことはなかったけど、
たまたまここの常設展で、ホンモノをはじめて見て、
ショックを受けました。とにかく繊細で美しい!
こんなスゴいものだったとは!
とはいえ、まだまだ不勉強なので、よくわからないのですが、
素晴らしいものが来ていました。
やっぱりホンモノの威力はスゴいです!

皇帝アウラングゼーブ騎馬像
インド デリー 17世紀初
ムガル帝国の第6代君主(在位:1658年 - 1707年)
第5代君主皇帝シャー・ジャハーン)とその妃ムムターズ・マハルの息子
あのタージ・マハールを建てた皇帝と葬られた妃の息子でした。
ムガル帝国全盛期の皇帝
<その崩御までに帝国の領土は最大となったが、
彼の崩御を契機に帝国は衰退・崩壊した。
1707年、ムガル皇帝アウラングゼーブの死後、
ムガル帝国では反乱が相次ぎ、
その広大な領土は徐々に解体されていったそうです。>

ナワーブ・ガーズィーッ=ディーン・ハイダル
インド ラクナウ 19世紀
北インド、アワド藩王国の7代目太守(ナワーブ) (在位:1814年 - 1827年)
ラクナウは、インドウッタル・プラデーシュ州の州都。
18世紀、アワド藩王国の首都として栄えた。ニューデリーの南東約500kmにある。
アワド太守
<ムガル帝国の北インド、アワド地方
(現在のガンジス川中流域、現ウッタル・プラデーシュ州東部を指す)の地方長官、
つまり太守(ナワーブ)のこと。
1801年以降はアワド藩王国となる。首府はファイザーバード、ラクナウ。
「アワド」という名前の由来は、ラーマ神誕生の地「アヨーディヤー」に由来し、
古来より数々の王朝がこの肥沃な地を領有した。
アワドの君主は様々な文化を保護し、アワドでは独自のイスラーム文化が培われ、
働き口が無くなったムガル帝国の画家をよく雇用して、
アウラングゼーブの治世に衰退したムガル絵画の復興も行われたとのこと
アワドは衰退したムガル帝国の後を継ぎ、
「アワドのムガル時代」といわれるような素晴らしい文化が作り上げられ、
ムガル帝国の首都デリーを凌駕する繁栄だった。
(4代目アーサフ・ウッダウラ, 在位:1775年 - 1797年)の頃)
しかその先代(3代目)の頃からイギリスへの従属化がすすみ、
莫大なイギリス軍の駐留費がかさみ、その後イギリスに併合される>
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AF%E3%83%89%E5%A4%AA%E5%AE%88#%E3%82%A2%E3%83%AF%E3%83%89%E3%81%AE%E8%97%A9%E7%8E%8B%E5%9B%BD%E5%8C%96
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