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法隆寺宝物館@東博

まだ時間あったので、(いつもはもうない)
閉館30分前
最後に気になっていた法隆寺館駆け足で見ました!すごかったです!

うわ~!
国宝・竜首水瓶(飛鳥時代・7世紀) があるではないですか~!
何?この、階段の天井に吊るしている巨大な透かし彫り細工は!
(灌頂幡(模造))
階下にオリジナルがガラスケースに!
パーツも展示されている!

仏像が広~いフロア一面に、おびただしい量の仏像が!
しかも一体、一体、360度見れるガラスケースに!(63体!)
しかも全部重文!

法隆寺宝物館、何これ?
この圧倒的な宝物の物量は…
話には聞いていたけど、凄すぎる…
もうへとへとだったので虚ろに歩き回ることしかできなかったけど、
こんないい加減に回ってはいけないでしょう?
ここだけでちゃんと時間取らないと。

あと以前、買った龍の文様のトートバックとTシャツ、てっきり今回の螺鈿のお盆が元ネタだと思っていたんだけど、
ひっぱり出してみたら、法隆寺宝物館の「盤竜鏡」というのが元ネタだったことがわかりました。
え?そうだったの?
調べたら今、展示されているではありませんか! 4月まで。
あと海獣葡萄鏡 ・海磯鏡 ・伯牙弾琴鏡 ・蓬莱鏡も!
行かないと!

というわけで、色々とリベンジを誓ったのでした。
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自在龍@東博

「金工 13-1室」
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もっとでかい自在龍置物があった。(明珍宗察・ 江戸時代・正徳3年(1713))
年号が記された自在置物の中で現存作ではこの龍がもっとも古く大きいそうだ。
龍では最大で出来栄えも優れているという
こちらは鉄で向こう(龍の部屋)は銀製でした。

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同じ人の甲冑金物 (明珍宗察・江戸時代・享保6年(1721))が素晴らしい。
自在鷹置物 (明珍清春・江戸時代・18~19世紀)も生きているみたい。

「刀剣 13-2室 」
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十二支図三所物 (後藤延乗(光孝))
干支の動物がごちゃっと群れているのが面白い

「陶磁 13-3室」
すらりとした美しい姿といい、印象的な色絵の具合といい、素敵です。
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色絵竹図徳利 (京焼・江戸時代・17~18世紀)

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色絵松竹文陶樽 ( 京焼・江戸時代・18世紀)

「歴史の記録 15室」
鳥の絵がすごかった。すごいと思ったら、やっぱり桁外れのシロモノだったのですね。
禽譜 山禽1・ 禽譜 山禽2 (堀田正敦編 ・江戸時代・18~19世紀 )
「江戸幕府若年寄・堀田正敦編纂の鳥類図鑑『禽譜』
鳥類の生物学的記載のみならず、関係する和歌や漢詩などの考証も記載した総合学術辞典としての性格を有する。」( wiki)
「堀田正敦(1755 - 1832)の『観文禽譜』は質的・量的に江戸時代の鳥類図譜の最高峰であるのみならず、当時の鳥学の水準、鳥の記述を介して和歌を中心とする古典文学、当時の幕府周辺の博物学を中心とする学問の様相、正敦の内政・外交等に関する重要な情報、また化政期の学問の庇護者としての正敦像を提示している」という。(鈴木道男)
(堀田正敦の北方探究と鳥学 ―正敦と工藤平助・最上徳内― 鈴木道男)
堀田正敦著・鈴木道男編著『江戸鳥類大図鑑 よみがえる江戸鳥学の精華』平凡社、2006年

「近代の美術」 18室
銅と銀の合金の額(雪中南天樹鵯図額・正阿弥勝義)とか、
橋本雅邦の「狙公」
かわいい熊の絵(岩藤熊萩野猪・望月玉泉)とか
あと龍に乗った観音様の極彩色の像(龍頭観音像・佐藤朝山・法隆寺救世観音像がモデル)とか、
色々と面白かったです~

やっと本館1階回った~。足が棒になった~。
休憩したかったけど、もう食べる所終わっていた~。

蒔絵@東博

やっと本館の一階。いつもはここだけで時間切れ、力尽きてしまうんですよね。
もうこの日は余力があまり残っていないけど、素通りはできないので
さらに駆け足。でもなかなかすんなりいかなかった。
何度も足止めをくらった。
漆工の12室、13室の陶磁器も!鳥類図鑑は15室、19室の銅と銀の合金の額とか、
本当に東博は奥が深すぎる…

いつも一番最初と最後に見て、一番長くいる部屋。「彫刻の11室」
あっと言う間に時間が過ぎる部屋。
でも今回はきりがないから目を瞑って通りすぎる。

「漆工の12室」
ここもいつもすごい。今回も渾身の展示。
目を見張るばかりの蒔絵の箱、箱、箱!
熊野速玉大社の橘蒔絵手箱(国宝)及び内容品 (南北朝時代1390年)
これが一際、美しい。目が離せない。こんなのが13個もあるんですか。
「蒔絵の手箱は 新宮の祭神十二所(上四社、中四社、下四社)と旧摂社の阿須賀神社用に計13合調進された。
速玉大社に現存する手箱は11合。
阿須賀神社への奉納分は第二次大戦後国有化され、現在は京都国立博物館所蔵となっている。
また手箱のうちの1合(橘蒔絵手箱)は民間の所有」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E9%87%8E%E9%80%9F%E7%8E%89%E5%A4%A7%E7%A4%BE

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源氏蒔絵掻上箱・源氏蒔絵櫛箱 ・源氏蒔絵沈箱(江戸時代・18世紀) も

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御所車蒔絵硯箱(江戸時代・17世紀) も美しい。

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それから松梅蒔絵書棚 (江戸時代・18世紀) 、

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山水蒔絵香棚 (江戸時代・19世紀 )も実に美しい。

北斎@東博

駆け足で本館2階の続きです。

「浮世絵と衣装」の部屋では
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葛飾北斎の七福神あそび
小袖 黒紅綸子地草木鶴亀幾何学形模様

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大きなガラスケースにいっぱいの龍や鳳凰の簪
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なんか面白い張果老据文印籠
張果(ちょう か、?~742年)は、中国の代表的な仙人である八仙の一人。敬称を込めて、「張果老」と呼ばれる。唐の玄宗時期に宮廷に招かれ、様々な方術を見せた。
白い驢馬に乗り、一日に数千里を移動した。休むときに驢馬を紙のように折り畳んで箱にしまい、乗る時には水を吹きかけて驢馬に変えたという」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E6%9E%9C

やっと二階終了(ぜいぜい…)
かなり力尽きました。

若冲@東博

駆け足で本館2階の続きです。
予想外だったのが若冲の墨絵と北斎漫画!
え~? 何これ?すごい!

「屏風と襖絵」の部屋は一面の屏風絵がずらり!
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松梅群鶏図屏風 伊藤若冲 (江戸時代・18世紀)
一見、マンガみたいにシンプルな筆遣いなのに、ストップモーションのように一瞬の動きを捉えて、無駄のない生き生きとした迫力! 石灯籠が点描の鬼!
鶏図屏風 曽我直庵 (安土桃山時代・16世紀・和歌山・宝亀院蔵)も 圧倒されるような迫力があって、
四季花鳥図屏風 岡本秋暉(江戸時代・19世紀)は華麗だけど落ち着いた雰囲気が素敵

「暮らしの調度」の部屋では、素晴らしい蒔絵や薩摩焼、京焼にうっとり
青海波水鳥蒔絵螺鈿盃及び盃台(永田友治)

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鷹飾簪

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染付銹絵松竹梅文徳利(京焼)

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色絵秋草文扇形皿 (京焼)

「書画の展開」の部屋では
松寿老・竹鶴・梅亀図(狩野〈晴川院〉養信)に心惹かれて

「能と歌舞伎」の部屋では
能装束の龍文の薄絹に感動

酒呑童子@東博

駆け足で回った本館2階の続きです
室町時代って、戦乱の手前という印象なんですけど、意外と優れた美術品が多いんですよね。
今回も色々と新たな発見があってすごく面白かったです。
絵画はよく分からなくて、ふだんはあまり見ないんですけど、今回は目を惹くものがいくつも
やまと絵も奥が深い~!

「宮廷の美術」の部屋では
室町時代の酒呑童子の図扇面が面白くて、思わず魅入ってしまいました。
全部で36面あって、今回は25~36面とクライマックスが出ていたんですね。
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実は2009年3月に、「平成19年度に新たに出品となった「酒呑童子絵扇面」の紹介を中心として、狩野派の「酒呑童子絵巻」の祖本となった室町時代末の狩野元信筆「酒呑童子絵巻(模本)」、桃山様式を示す当館所蔵の伝狩野孝信筆「酒呑童子絵巻」、現在原本の知られない江戸時代初期の狩野探幽筆「酒呑童子絵巻(模本)」を加えて、場面比較を行いながら、室町時代から江戸時代初期にかけて流行した「酒呑童子絵巻」を特集」していたんですね。知らなかった。
https://www.tnm.jp/modules/r_exhibition/index.php?controller=item&id=2322

去年も展示されていたらしく、もしかして?と思ったらやっぱり。3年かけて、展示していたんですね!
2023年1月に 13~24面
https://www.tnm.jp/modules/r_exhibition/index.php?controller=item&id=6891
2022年1月に 1~12面
https://www.tnm.jp/modules/r_exhibition/index.php?controller=item&id=6573

また展示してくれないかな~

あと、「禅と水墨画」では
鍾馗図(山田道安筆)の迫力にわくわくして、
布袋図(「輞隠」印 )の和やかさにうっとりして

山田 道安(やまだ どうあん)は、戦国時代から桃山時代の画家だそうで。
「輞隠」の印章を用いたとされるのは狩野元信の弟である狩野雅楽助(かのう うたのすけ)という人だそうで。

「茶の湯の部屋」では
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建盞(けんさん)(禾目(のぎめ)天目)(中国・建窯・南宋時代・12~13世紀)という茶碗の銀色の細い線条のような輝きが不思議で、

灰被天目(中国・元~明時代・14~15世紀)はちょっと灰色がかっているのが面白く、
天目(瀬戸・室町時代・16世紀)は、赤茶っぽい点や縁が面白い。
青磁蓮弁文碗(中国・龍泉窯 ・南宋~元時代・13~14世紀)はほんのりとした水色の蓮の花の様な文様が素敵
青磁人形手茶碗(中国・明時代・15~16世紀)は淡いベージュ色の中に、人が描かれているのが、ペルシア陶器みたい。

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「武士の装いの部屋」では
南北朝時代(金具)の牡丹造腰刀(14世紀)が大変見事な細工で、水色の部分はトルコ石かガラスか?
いやあ、こんなものがさらっと出てくると嬉しくなりますね~!
ホント恐ろしいです、東博…

青銅鏡@東博

とにかく駆け足で2階と1階を回りました!
やっぱり青銅鏡、奥が深すぎる~!

高円宮さまの根付コレクション
今まで時間がなくて、いつもスルーしていた部屋。
はじめて覗いてみました。
ここもすごい!
わけのわからないものも多かったけど、馬とか、貘とか面白かったです。

本館2階の第1室 縄文~奈良
この辺りはいつも青銅鏡しか見られないけど、結局今回も(笑)
古墳時代の青銅鏡・奈良時代の銅鏡がちょっと面白い文様です。
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鼉龍鏡 (だりゅうきょう・山梨県甲斐銚子塚古墳出土・古墳時代・4世紀 青銅製]

WIKIによると、研究者が鼉龍(ワニに似た中国の空想上の獣)と解釈したことが由来とか。
現在では漢鏡の画文帯神獣鏡を日本列島内で模倣した倭製鏡とされているとか。
日本各地で約70面が確認されているという。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BC%89%E9%BE%8D%E9%8F%A1
「鼉龍鏡は画文帯神獣鏡・環状乳神獣鏡などを基に独自の構図・表現を加えた倭鏡で、甲斐銚子塚古墳から出土した鼉龍鏡は外区に鳥文・菱雲文を巡らせ、内区の構造は簡略化されている」
『甲府盆地から見たヤマト』(2006,山梨県立考古博物館)

奈良時代のものが3点、これも三者三様ですごい…
方形というのも珍しい。

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海獣葡萄鏡 (福岡県優婆塚出土・奈良時代・8世紀)
海獣とは砂漠の向こうに住む「海外の獣」という意味であるという。(古鏡の世界~会津八一コレクション)

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瑞花狻猊方鏡 (京都市山田桜谷町出土・奈良時代・8世紀)
狻猊(さんげい)は中国の伝説上の生物。
しばしば獅子と同一視される。古くは虦猫(さんびょう,トラの一種)に似て、虎豹を食うとしている。(wiki)

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瑞花双鸞八花鏡 (大分県津波戸山出土・奈良時代・8世紀)
鸞(らん)は中国神話の伝説の霊鳥。

古墳時代の文様の銅鏡は同じ古墳のものが平成館で展示中とのこと
他にも青銅鏡がいっぱいみたい~!
今度行かねば!

龍づくし 2 @東博

龍づくし続き

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龍の自在置物(里見重義作 明治時代・20世紀)
小さくてかわいかったです。(銀製だそうです)

それから、蛇のような龍が首に巻きついている龍燈鬼立像(模造)森川杜園作(原品:奈良・興福寺所蔵 明治時代・19世紀)がかわいらしくて、
(森川杜園氏は「仏像の修復も手がけ、破損のひどかった興福寺の天灯鬼・龍灯鬼を現在の形に修復したのは杜園といわれます。その成果に基づいて制作したのが『龍灯鬼』」だそうです)

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舞楽面 陵王 (和歌山・丹生都比売神社伝来・鎌倉時代・13~14世紀)も迫力で、衣装の陵王裲襠 (江戸時代・19世紀)も素敵でした。

それから面白い青銅鏡が2点
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双頭龍文鏡 「君宜高官」 (伝楽浪古墳出土・2世紀)
龍なのかどうか分からない流線型が面白いです。、

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盤龍鏡 (岡山県鶴山丸山古墳出土・古墳時代・4~5世紀 )
「盤龍鏡は、中央の鈕の下から龍と虎の胴体が表れるように半肉彫りで表現された、いわゆる盤龍紋を主要な紋様とする古代の鏡」(兵庫県立考古博物館 加西分館 古代鏡展示館)
または「盤龍とはわだかまって(とぐろを巻いて)いる龍のこと」(山梨県埋蔵文化財センター)らしい。
解説には2匹の龍とありました。

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それともうひとつ、よく分からない円盤形のもの龍文玉璧(中国・戦国~前漢時代・前4~前1世紀)は玉(Jade)製だって?
解説による外側にとうねうねしているのが龍だそうです。
WIKIによると「(へき)は、古代中国で祭祀用あるいは威信財として使われた玉器。多くは軟玉から作られた」のだそうです。

後でチェックしたら、
龍と鳳凰の蒔絵螺鈿の印籠を見るの忘れていました!
え~? どうして? おかしいな?
しまった! リベンジしなくては!

龍づくし@東博

辰年なので、龍づくしの新年の特別展示があるというので、行ってきました~!
いやあ、凄かったです~!

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まずお目当ての龍の螺鈿のお盆(龍涛螺鈿稜花盆-中国 元時代・14世紀)
螺鈿がすごい!思わず見とれてしまいますが、
実は目つきというか顔つきが意外とお茶目。かわいいです。
稜花とは花の模様のことではなく、花の形になるように切れ込みや細工を施したお盆の形のことらしい。
これもモンゴル時代なんですね。
わりと好きだと思うのが、この時代のものが多いです。

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そしてうっとりしたのが、
龍の蒔絵の宝剣(梨地水龍瑞雲文蒔絵宝剣-金具:加納夏雄作 明治6年(1873))
(刀身)奈良時代・8世紀
意匠が本当に素晴らしいです。
「奈良時代の直刀は、正倉院宝物を除けばその数は少ない。
聖武天皇の御剣として正倉院に伝来し、明治5年(1872)に明治天皇の元に取り寄せられた。
翌6年に加納夏雄による水龍文の拵が製作され、水龍剣と称されるようになった。」
e国宝
https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100472&content_part_id=001&content_pict_id=004&langId=ja&webView=

加納 夏雄(かのう なつお、1828年5月27日(文政11年4月14日) - 1898年(明治31年)2月3日[1])は、幕末から明治にかけて活躍した金工師。京都出身」 wiki

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それから大好きな運慶派の
十二神将立像(辰神)-(浄瑠璃寺伝来・鎌倉時代前期の慶派)
この生き生きとした表情、躍動的な動きの姿が好きです。

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三彩の龍耳の瓶 (三彩貼花龍耳瓶 中国 唐時代・8世紀)
大きさといい、プロポーションといい、すらりとしていて、美しかったです。

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三十匹龍図三所物-目貫・小柄・笄(後藤祐乗 室町時代・16世紀)
龍が沢山、ぐるぐる巻きに絡んでいて、すごい!

後藤 祐乗(ごとう ゆうじょう、永享12年(1440年) - 永正9年5月7日(1512年6月20日))は、室町時代の金工家であり、装剣金工の後藤四郎兵衛家の祖。
小柄(こづか)・笄(こうがい)・目貫(めぬき)の三所物(みところもの)が主で、良質な金・赤銅の地金に龍・獅子などの文様を絵師・狩野元信の下絵によって魚々子地に高肉彫で表したものが多い。祐乗の彫刻は刀装具という一定の規格のなかで、細緻な文様を施し装飾効果をあげるというもので、以後17代にわたる大判座および分銅座の後藤家だけでなく、江戸時代における金工にも大きな影響を与えた。代々乗を通字として用いた。 」wiki

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ミネラルフェア両国

さすが辰年?
けっこう龍の置物が出ていました。
それなりに大きくて、もちろんお値段もそれなり。
眼福でした。
ローズクオーツとか黄水晶、紫水晶、水晶、翡翠…
亀さんや九尾の狐、フクロウ、天馬、馬

そしてまた龍を連れて帰ってしまった。(笑)
ラブラドライトのかわいいドラゴン
かわいい龍の指輪
翡翠のブレスレット…
だって安かったんですもの…(笑)

マリの映画 まとめ

正月からのマリ尽くし、最後は映画をまとめてみました。

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『ひかり』(スレイマン・シセ)1987
Yeelen (Souleymane Cissé、1940年 - )マリ共和国の映画監督。バマコ出身。
(87年カンヌ映画祭審査員賞受賞)

マリの映画-『ひかり』 2021-03-22

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「禁じられた歌声」 アブデラマン・シサコ監督
'Timbukutu' Abderrahmane Sissako (モーリタニア出身)
2014年/フランス・モーリタニア合作/97分

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「トンブクトゥのウッドストック」Woodstock in Timbuktu
監督:デズィレ・フォン・トロタ Desire von Trotha
2013年/ドイツ/90分/ブルーレイ/監督:デズィレ・フォン・トロタ

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『トンブクトゥの写本』(2009)The Manuscripts of Timbuktu
監督:ゾラ・マセコ(Zola Maseko) /南アフリカ/74分

トンブクトゥの映画 2021-03-02
「禁じられた歌声」の背景 2021-03-05
「トンブクトゥのウッドストック」の背景 2021-03-04

マリ情勢

少し前だけど、マリでもクーデターがあったんですね。知らなかった。

西アフリカ:なぜクーデターが多発しているのか
タナカショウ Sho Tanaka
2022年4月7日

「西アフリカでは、約1年半の間に6回ものクーデターが発生した。2020年8月と2021年5月にはマリで、2021年9月にはギニアで、2022年1月にはブルキナファソで、国軍が大統領などの身柄を拘束し、軍事政権を樹立した。政権交代には至っていないものの、2021年3月にはニジェールで、2022年2月にはギニアビサウでクーデター未遂も起きている。この期間、アフリカで発生した8件(※1)のうち6件のクーデターを西アフリカ諸国が経験したことになる。

2020年代に入って、クーデターがまず発生したのはマリだった。マリは1960年にフランスから独立した国である。その後、クーデターによる政変や一党独裁体制を経験してきたが、1991年のクーデターで樹立したアマドゥ・トゥマニ・トゥーレ暫定政権が民主化を進め、1992年から10年間続いたアルファ・ウマル・コナレ政権、2002年から2012年まで続いたトゥーレ政権は比較的安定した政権運営を行ってきた。

しかし2012年、独立を求めるトゥアレグ人によるマリ北部での武装蜂起、及び過激派の介入により北部の都市は占領され、中央政府の対応力不足に不満を持った国軍は同年3月にクーデターを起こし、トゥーレ政権は打倒された。2013年9月に樹立したイブラヒム・ブバカール・ケイタ政権は汚職、統治能力の欠如により国民の間で不満がたまっていた。例えば、7.5%と歴史的な投票率の低さを記録した2020年3月の議会選挙におけるケイタ政権の不正疑惑(※2)を背景に、「6月5日運動-愛国勢力結集」(M5-RFP)によるデモが何度も行われていた。その間も北部で武力紛争は続いてきた。

このように政権の正統性が低下している最中、2020年8月18日に国軍によるクーデターが発生した。軍の一部が大統領公邸を襲撃し、ケイタ大統領とその息子や政府高官を拘束した。ケイタ大統領は辞任し議会は解散され、代わりに軍部が設立した国民救済委員会(CNSP)が権力を掌握し、暫定政府の暫定大統領に元軍人のバ・ヌダウ元国防大臣、暫定副大統領にアシミ・ゴイタ大佐が就任した。

当初、汚職や不正選挙に失望していた国民は、若い陸軍将校が率いる軍事政権に希望を抱いていたが、改革を実現するという軍事政権による国民への約束は守られなかった。暫定政権に文民政権の要素を部分的に取り入れ、軍部によるコントロールが低下してくると、2021年5月にはクーデター内のクーデターとも言われるかたちで、当時の暫定大統領と暫定首相が拘束され、アシミ・ゴイタ大佐が暫定大統領に就任した。

これにより樹立した新しい政権も、M5-RFPが提出した憲章案を修正したり、文民政権移行を認めたはずが、防衛大臣を首相にしたり、治安と安全保障にしか権限を与えられていなかったゴイタ大統領が立法機関の人事権を得るなど、国民のための統治とはかけ離れているのが現状だ。

このようにマリでは、民衆の失望を利用してクーデターを成功させた軍が新たな圧政を敷いている状況下にある。

そもそも、「対テロ」という名目で介入してきたフランスとアメリカだが、その裏には鉱物資源の入手や政治的な影響力の拡大といった狙いもあるという指摘がある。西アフリカは資源豊かな国が多く、ガーナ、マリ、ブルキナファソでは合計275トン以上の金が生産され、ギニアは世界最大のボーキサイト埋蔵量を誇り、ニジェールは世界のウラン生産量の5%を占めている。」
https://globalnewsview.org/archives/18302

マリでクーデター、大統領が辞任 2020年08月20日
https://www.jetro.go.jp/biznews/2020/08/5ff4ebeafd1cf9e0.html

マリで政変、新たな暫定大統領と首相が就任 2021年06月17日
https://www.jetro.go.jp/biznews/2021/06/9b66843fa8a35d4a.html
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(wiki より)

マリの遺跡 4

ええっ?古墳? 古墳があるの?
ディアの資料を見ていたら、マリに古墳があった?
名前が似ていたからてっきり、Ounjougouかと思って勘違いした。でも違った。別物だった。
トンブクトゥ付近、湖水地域って辺りだって。ええ? そんな所に?

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(Bedaux and van der Waals 1994)

El Oualadji, Koï Gourrey
「マリ湖地域の内ナイジェールデルタには、西アフリカのサヘル王国へのサハラ横断貿易の時代に建設された記念碑が 2 つあります。
エル・ウアラジの記念碑的な古墳は、西暦 1030 年から 1220 年の間に造られ、馬の遺体やさまざまな品物 (馬具、飾り板や鐘が付いた馬具、ブレスレット、指輪、ビーズ、鉄製品など) とともに2 人の人間の遺体が埋葬されています。 )は、アル・バクリが強調したように、ガーナ帝国の王の王室の埋葬地であった可能性がある。

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(ウアラジ古墳-McIntosh 1998)

コイ・ゴーリーの記念碑的な古墳。西暦 1326 年以前のものと考えられ、20 体以上の人間の遺骨がさまざまな品物とともに埋葬されています (例: 鉄製のアクセサリー、大量の銅製のブレスレット、アンクレットやビーズ、大量の壊れた遺骨など)ただし、陶器全体、別の別個の無傷の施釉陶器、木製ビーズの骨のネックレス、鳥の置物、トカゲの置物、ワニの置物)、そしてマリ帝国内に位置している。」

古墳て、エジプト、スーダンだけでなく、
ニジェール、モーリタニア、セネガル、ブルギナ・ファソ、ナイジェリアにもあるらしい。
https://en.wikipedia.org/wiki/Tumulus

続きを読む

マリの遺跡 3

やっと終わったと思っていたのに、
もう一つ、どうしても気になる遺跡を見つけてしまった。
これもなかなかとんでもなさそう。

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(Anne Mayor他 2005)

オウンジョグーOunjougou
「バンディアガラ近くのドゴン高原にあるオウンジョグー遺跡の発掘調査では、15万年以上前にこの地域に狩猟採集民が住んでいたことが判明した。7万年前から2万5千年前まで遡ることは確実。

陶器はマリ中央部のオウンジュグー遺跡で紀元前約 9,400 年に出現し、独立した陶器の発明の一例であると考えられている。
マリでは、ここに属するラヴァン・ド・ラ・ムーシュ遺跡の年代は 11,400 ~ 10,200 年と推定されています。
この遺跡はヤメ川のオウンジュグ遺跡に属しており、後期旧石器時代以降のあらゆる時代の痕跡 と紀元前 9400 年までのマリ最古の陶器が残されています。
ラヴァン・ド・ラ・ムーシュでは、遺物は紀元前 9500 年から 8500 年の間に作られた可能性があります。
ラヴィン・デュ・ヒブー 2 遺跡は、紀元前 8000 年から 7000 年に遡る可能性があります。
その後、この 2 つの峡谷で 1997 年から実施されている調査プログラムの過程で、前述の最古の陶器の遺跡が発見されましたが、紀元前 7000 年から 3500 年の間で中断が発生しました。
紀元前では、狩猟採集民にとってさえ、気候があまりにも不利だったためです。」
https://en.wikipedia.org/wiki/History_of_Mali

「オウンジョウゴウ遺跡群は 100 を超える遺跡で構成されています。
考古学的および植物学的遺跡が豊富な多くの層の分析により、ナイジェールデルタ内陸部と西アフリカの居住パターンを理解するために重要な主要な年代順、文化的および環境的順序の確立が可能になりました。
オウンジョウグーはアフリカで発見された最古の陶器を産出しており、(東アジアと並んで)陶器の独自の発展が起こった最も初期の地域の 1 つであると考えられています。」
https://en.wikipedia.org/wiki/Ounjougou

「この遺跡は、1989 年からユネスコの世界遺産リストに登録されているドゴン族の土地の一部です。
1997 年以来、ファレーズ ド バンディアガラ周辺地域は、西アフリカの石器時代の環境と居住地に関する国際プロジェクトで考古学的調査が行われており、スイス、フランス、ドイツの大学が参加しています。
ジュネーブ大学のベルギー人考古学者エリック・ホイセコム氏がプロジェクトリーダーで、これまでこのプロジェクト、特にオウンジュグーでの発見物に関する出版物をいくつか出版している。」
https://de.wikipedia.org/wiki/Ounjougou

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マリの遺跡 2

ちょっと待って。また出てきた。
ディアの記述の中に、
「トンブクトゥとジェンネに隠れて、ディアとメマはイスラム教がアフリカ化する重要な中心地であり続けている。」
という記述があった。
え? メマって何? どこ?
メ マであちこち調べたり、参考文献からあちこち探して、やっとメマの地名が載っている地図を見つける。
そしてやっと竹沢先生の論文を見つける。
これもとんでもなかった。
mema_tkzw.jpg
(竹澤 祥一郎 2005)
Méma
「マシーナの北に位置する。デボ湖とナイジェール内デルタの西。
紀元前 2000 年前にサハラ砂漠の荒廃した故郷から移住してきたコミュニティの最初の定住地であった可能性がある。」
Toladié、Akumbu
西暦 430 年から 670 年の間に遡るトラディエ
アクンブ墳丘群では、その考古学的発見は西暦 400 年から 1400 年の間に遡る
Boubou, Boundou, Boulel, Kobadie, Kolima, and Nampala
生産され精錬された鉄の道具
https://en.wikipedia.org/wiki/M%C3%A9ma

「最近の考古学活動(地域の遺跡調査とアクンブの墳丘群の発掘)により、人口が散在する乾燥したサヘル地域であるメマが鉄器時代に集中的に占拠されていたことが証明された。
この激しい占領は、確かにより良い環境条件と関連しており、後期石器時代にまで遡る。
地域調査中に、100 を超える鉄器時代の遺跡と 30 近くの後期石器時代の遺跡が特定された。」
Iron age occupation in the Méma region, Mali
Téréba Togola  1996

メマは、古代ガーナの首都の一つとされるクンビ・サレハと、中世に多くの王国が存在したニジェール川中流に挟まれた地域。
実はメマは農業がほとんど不可能な乾燥したサバンナにある。
しかし、古代にはニジェール川の合流点があったため、水が豊富だった。この地域の繁栄は、100 を超える遺跡の存在によって証明されている。
私たちは後期石器時代の遺跡と鉄器時代の遺跡が混在するコリマと呼ばれる遺跡群で、1998年と1999年に現地発掘調査を行った。
紀元前 850 年から 800 年頃の遺跡からは、家畜化された小さな牛とともに神への捧げ物として使用された大量のフォニオが見つかった。
これは、西アフリカの考古学的発掘で発見された最古の穀物の一つであるフォニオが紀元前 850 年に栽培化された証拠である可能性があります。「工業規模」といえる製鉄炉跡も数多く見つかった。
ガーナやマリなどの古代西アフリカ王国の形成に貢献したのは、メマのこうした経済発展だったはずだ。」

西アフリカの歴史におけるメマ
古代ガーナとマリの経済活動
竹澤 祥一郎、 ママドゥ・シセ、 小田博隆
アフリカ研究ジャーナル/2005 年巻 (2005) 66 号 31-46p
https://www.jstage.jst.go.jp/article/africa1964/2005/66/2005_66_31/_article

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マリの遺跡 1

う~ん、困った。クンビ・サレーやニアニ調べていて、またヘンなもの見つけてしまった。
ディアって、さり気なく地図に名前が出てきていて、気になって調べてみたら…とんでもなかった。

dia_Dueppen_ Gallagher.jpg
(Daphne E. Gallagher et Stephen A. Dueppen,2018)
ディア Dia
「マリ中南部のモプティ地方にあるテネンコウ地区にある小さな町であり、ディアカ共同体の本拠地。
インランドデルタ氾濫原の西端に位置し、ニジェール川の主要な支流の 1 つであり、この地域で唯一の恒久的な水路であるディアカ川によって水が供給されている。
ディアの 3 つの集落の墳丘群は、豊富な口頭資料や文書資料で知られており、近隣のジェンネ市やトンブクトゥ市といったよく知られた都市よりも古い。
最も古い遺跡は紀元前 9 世紀に遡る。
紀元前 900 年頃から始まり、紀元前 600 年頃に最盛期に達したと思われる。
紀元前3 世紀から 6 世紀の間に発生した古代の集団
1998 年から 2003 年にかけて行われた考古学的発掘の後、マリ政府はディアをマリ最古の居住都市として宣言。
この町には主にボゾ族が住んでいます。ボゾ族はナイジェールデルタ中央部の最古の住民であり、漁師。」
https://en.wikipedia.org/wiki/Dia,_Mali
https://fr.wikipedia.org/wiki/Dia_(Mali)

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マリの古都

おまけ その3
ちょっと待って。その他にもまだマリの古都がいくつかあるんですけど。
もう、わけが分からなくなりかけている…。
とりあえず忘れないようにメモ。
セグー とソンガイの起源と

AfricaOest_fin_sXVIII.jpg
(西アフリカ18世紀末-wiki)
セグー (Ségou)
18世紀初頭、セグーを都とするバンバラ王国(セグー王国)が勃興しニジェール川中流域を支配すると、セグーはこの一帯の中心として繁栄するようになった。
1861年にバンバラ王国はエルハジ・ウマール率いるトゥクロール帝国に滅ぼされたが、トゥクロール帝国はそのままセグーに都をおき、1890年にフランスに滅ぼされるまでこの一帯を支配していた。
セグーはバンバラ王国の都だったこともあり、現代でも人口の半数はバンバラ人が占めている。そのほか、ボゾ人やソニンケ人をはじめとする様々な民族が居住している。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%82%B0%E3%83%BC
AfricaOest1875_wiki.jpg
(1875 年の西アフリカ-wiki)

ソンガイの起源
ソンガイ人の国家の起源は明らかでないが、ニジェール川中流域北岸のクーキャ(Kukiya, クーガとも)と呼ばれる町を中心に小王国「ザ王朝」を築いていた。アラブ人著述家アル・イドリーシーによると「人口が多く城壁に囲まれていた」という。

ザー王朝(ズワー、ズーア、ジュワー、ジャー、ディア、ディウアとも表記される)は、今日のマリにあるニジェール川沿いのクキヤとガオの町に拠点を置いた中世の王国の統治者でした。ソンガイ族は全般的にこの王国の子孫です。その中で最も注目に値するのはニジェールのザルマ族で、彼らの名前の由来となった「ザルマ(ザ・ハマ)」という名前はこの王朝に由来しており、これは「ザの子孫」を意味します。

アル・サディの 17 世紀の年代記『タリク・アル・スーダン』には、口頭伝承によって伝えられたソンガイ族の初期の歴史が記載されています。この年代記は、伝説的な王朝の創始者ザ・アラヤマン(ディアリアマンとも呼ばれる)がもともとイエメン出身でクキヤの町に定住したと報告している。
この町は、ガオの南東 134 km、ファファ急流の北、ニジェール川の東岸にある現在のベンティヤ村の近くにあったと考えられています。
14世紀から15世紀に遡るアラビア語の碑文が刻まれた墓石がこの地域で発見されている。
クキヤは、もう 1 つの重要な年代記であるタリフ・アルファタシュにも言及されています。
タリフ・アル・スーダンは、第 15 代統治者ザ・クソイが西暦 1009 年から 1010 年にイスラム教に改宗したと述べており、ある段階で王国、あるいは少なくともその政治的焦点は北のガオに移った。ガオ王国は成長するサハラ横断貿易を利用して小さな地域大国に成長し、13 世紀初頭に マリ帝国に征服されました。
https://en.wikipedia.org/wiki/Za_dynasty
kikuya_ggl.jpg
(google)
ベンティアとも呼ばれるクキヤは、ニジェールの島にある場所で、現在のマリのガオから 150 キロ下流、ニジェールとの国境の直前にあります。

14 世紀、クキヤはガオ出身のソンニ族がマリ同盟のザの圧倒的な力から撤退した場所でした。アラビア語の碑文が刻まれた多数の石碑が今でもクキヤの歴史的重要性を証明しており、そのうちのいくつかは 13 世紀末のものです。
https://de.wikipedia.org/wiki/Kukiya

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ニアニ

おまけ 2
マリ帝国の都だった かもしれないニアニは川向こう、国境線の向こう、ギニア。

Niani Guinea_Wiki.jpg
(wikiより)
ニアニ Niani
「ニアニ(Niani) は、上部ギニア地方にある一集落。
国の東部、カンカン地方のカンカン県に位置している。サンカラニ川の左岸に位置
現在は村であるが、13世紀から14世紀にかけて、最盛期のマリ帝国の王たち(マンサ)が居住していた首邑(首都)であったと考えられることが多い。
しかし、研究によれば、この仮説は現在では時代遅れであり、もはや関連性がなくなっている 」という。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%A2%E3%83%8B
https://en.wikipedia.org/wiki/Niani,_Guinea
https://fr.wikipedia.org/wiki/Niani

「マリ帝国の首都が何であるかは、歴史家の間で議論の的となっている。
学者らは首都がニアニかニジェール川のどこかにあると主張し、あるいは首都が何度か変わった、本当の首都は存在しなかった、あるいは現在のセネガルのガンビア川上流ほど遠くにあったとさえ主張している。
大規模な考古学的発掘により、この地域が 15 世紀の重要な貿易と製造の中心地であったことが示されているが、王の住居の確かな証拠は明らかにされていない。
実際、ニアニからは 13 世紀後半から 15 世紀初頭にかけてのあらゆる種類の考古学的サンプルが著しく欠如しており、マリ帝国の全盛期にはニアニが無人であった可能性があることが示唆されている。」
https://en.wikipedia.org/wiki/Mali_Empire

Mali_Empire_Gabriel Moss.jpg
(wiki-Gabriel Moss)
マリ帝国
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AA%E5%B8%9D%E5%9B%BD

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クンビ・サレー

おまけ。
ガーナ王国の首都と考えられるクンビ・サレーは、モーリタニア南東部に位置している。
フランスが勝手に引いた国境線の向こう。
Koumbi Saleh_Wiki.jpg
(wiki)
クンビ・サレー遺跡
Site archéologique de Kumbi Saleh
「クンビ、古代の最後の首都ガーナは、 9 世紀から 13 世紀にかけて西アフリカで栄えた大貿易帝国です。
現在のマリのバマコの北約 322 km に位置するクンビは、1240 年以前の繁栄の絶頂期には、人口 15,000 人を超える西アフリカ最大の都市でした。
その境界内には、西スーダンの初期王国の習慣と同様に、2 つの都市があり、1 つは王が占領し、もう 1 つはイスラム教徒の商人が占領しました。」https://www.britannica.com/place/Kumbi

「2001年、モーリタニアの世界遺産暫定リストに追加された。
ガーナ帝国の首都であるクンビ・サレハの遺跡は、1914 年にボンネル・ド・メジエールによって発見されましたが、トマシー、マウニー、ラザルティーグが、例外的な建築物と考古学的資料の異常に豊富ないくつかの譲歩を発見するまで発掘されませんでした。
1960 年から、セルジュ・ロベールとソフィー・ベルティエは新しい利権の発掘を開始し、特に現在西アフリカ最古かつ最大のモスクと考えられているモスクの発掘を開始し、考古学によって見事に修復されました。
発掘された考古学的遺物の中には、非常にオリジナルの碑文が刻まれた銘板、驚くべき一連の郵便物、希少金属の品物などがあります。

この場所の最も古い日付は 4 世紀にまで遡りますが、放棄されたことが証明されるのは 13 世紀半ば頃になって初めてです。
この場所は、周囲が 10 km を超える並外れた建築群です。認可された利権は、後にワラタとネマの町にインスピレーションを与えることになる卓越した建築芸術における頁岩プレートの非常に特殊な使用を示しています。
この場所にある非常に印象的な宗教建築物は、柱のあるアニミズム記念碑と、考古学によって見事に修復された大きなモスクです。
古代の著者によれば、ガーナ帝国はこの時代のこの地域で最も重要な政治組織であり、その権威の下に多数の王国を擁し、スーダンの有名な金の貿易をスーダンの到来まで統制することができた。
クンビ・サレハの生活様式を大きく変えたアルモラビ朝の征服。
そして、ティシット、ワラタ、そしてその後のトゥンブクトゥの歴史都市の科学的影響に加えて、これらの都市の利益のためにサハラ横断貿易の軸が変化したことにより、都市の放棄が加速した。」
https://whc.unesco.org/en/tentativelists/1546/
https://en.wikipedia.org/wiki/Koumbi_Saleh
ghana_wiki.jpg
(wiki)
ガーナ王国
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%83%8A%E7%8E%8B%E5%9B%BD

古代ガーナ王国 2021-04-29

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マリの世界遺産 6

暫定リスト、これがラストです。
引き継ぎ自然遺産。ニジェール川中流の内陸デルタ地域
rioNiger_wiki.jpg
(wiki)
ニジェール川流域(マルカラ川の入り口からデボ湖まで)Le Bassin du fleuve Niger (du seuil de Markala au lac Débo) 2017年
セグー、モプティ、トンブクトゥ
ニジェール川流域(マルカラ河口からデボ湖まで)の面積は 4,119,500 ヘクタール以上です。天然資源が豊富で、多様な生態系(湖、平原、氾濫原の森林、ブルグティエール)を呈するこの湿地は、西アフリカ最大の大陸湿地であり、アフリカではボツワナのオカバンゴデルタに次いで 2 番目です。

この地域は、陸上(氾濫原)および水生生態系(2つの川、ニジェール川とバニ川、19の湖)に生息する多数の動物種と水生植物により、生物多様性の重要な地域を構成しています。動物相は、カバ、カイマン、マナティー、爬虫類(ニシキヘビ、オオトカゲ、コブラ、マムシ)、両生類などで構成されています。

ニジェール川流域の生態学的条件と例外的な自然の可能性は、大帝国 (ガーナ、マリ、ソンガイ) や神権的な王国や国家 (セグーのバンバラ王国) の形成において非常に重要な役割を果たしました。 、マキナのフラニ帝国、エル・ハジ・オマル・トールの帝国)。これは、ソロトモの遺跡、ド・ドゥグーの遺跡、歴史都市ハムダラエの遺跡によって証明されています。

ニジェール川流域はマリ最大の氾濫原であり、西アフリカ最大の大陸湿地であり、アフリカではボツワナのオカバンゴデルタに次いで2番目に大きい湿地です。この盆地は、その規模と内容により、いくつかの生物種(陸生および水生動物、鳥類、植物種、微生物など)と、さまざまな生態系(陸生、水生など)を含む豊かで多様な生物多様性を含んでいます。間違いなくマリでユニークな場所です。
3 つのラムサール条約登録湿地が含まれています。 :ホロ湖(18,900ヘクタール)、セリ(40,000ヘクタール)、ワラドデボ(103,100ヘクタール)。
https://whc.unesco.org/fr/listesindicatives/6271/
Gourma-wiki.jpg
(wiki)
グルマゾウ生物多様性保護区 La Réserve de la Biodiversité des éléphants du Gourma 2017年
ガオ、モプティ、トンブクトゥ
マリのグルマと呼ばれる地域は 3 つの地域 (モプティ、トンブクトゥ、ガオ) に関係します。この地域はマリ東部、ニジェール川とブルキナファソ国境の間に位置し、8,300万ヘクタール(約83,000平方キロメートル)以上に広がっています。グルマは、北と東はニジェール川によって、西と南はドゴン族の丘と崖によって限定されています。グルマは、大きな岩、砂丘、平原、池、湖、そして象を覆う広大な地域です。
非常に古い歴史的および考古学的遺跡も。オウンジョウグOunjougou の遺跡(バンディアガラ高原)、ドゥエンツァDouentza近郊のいくつかの遺跡で発見された新石器時代の人口の痕跡、塚(遺跡、より正確には古代の村または古代都市の遺跡)、 「古墳」、意味に満ちた岩(動物の表現、魔神の生息地など)。
https://whc.unesco.org/fr/listesindicatives/6270/

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マリの世界遺産 5

暫定リスト、まだまだ続きます。
次は自然公園です。
この辺りはセネガル川上流地域なんですね。
rioSenegal_wiki.jpg
(wikiより)
ブークレ・デュ・ボレ国立公園 La Boucle du Baoulé
マリ南西部ケイズ Kayes,、コリコロ Koulikoro
マリ西部のバウレ川 (セネガル川の支流の 1 つ) によって形成される巨大な環状地帯に位置しています。
約100万ヘクタールの広大な地域をカバーしています。
4 つの自然保護区 (ブークレ デュ バウレ国立公園、フィナ、コンゴサンブーグー、バディンコ保護区) があり、それらの間には未分類の回廊 (本質的に村の土地に相当) が伸びています。
多様な動植物に加えて、重要な考古学的遺産があり、現在までに 300 以上の遺跡が確認されています。
https://whc.unesco.org/fr/listesindicatives/1348/
https://en.wikipedia.org/wiki/Boucle_du_Baoul%C3%A9_National_Park

バウレ川 Baoulé River
バマコの西の源からトゥコトの下流のバキョイまで流れ、セネガル流域の一部を形成
マンディン語では、バオレは「赤い川」、バキョエは「白い川」、バフィンは「黒い川」を意味します。
バオレの水源は、ギニア国境近くのバマコの南西 120 キロメートルの丘
北方向に 200 キロ以上流れ、その後西に向きを変えて大きく蛇行し、北に大きく循環します。この範囲全体で、ブークレ デュ ボオレ国立公園の北限を構成します。
https://en.wikipedia.org/wiki/Baoul%C3%A9_River

バフィン マカナ パーク生物多様性保護区 La Réserve de biodiversité du Parc du Bafing Makana ケイズ地方
Parc National de Bafing
2002 年に公園内にビオトープ保護区が作成。クールフィン保護区(Korofin,Kouroufing)とウォンゴ保護区(Parc National de Wongo)、そしてチンパンジー保護区( le sanctuaire des chimpanzés)です。
公園内のすべての川はセネガル川流域の水力系、特に主要な支流であるバフィン川と小さな川のネットワークに属しています。
https://whc.unesco.org/fr/listesindicatives/6161/

バフィン川 Bafing River
ギニアとマリ共和国を流れる河川。全長760㎞。
マリ西部のカイ州にあるバフーラベ(Bafoulabé)でバコイ川と合流し、セネガル川となる。マンディング諸語においては、バフィンは「黒い川」を意味する。
源流はギニアのフォンタ・ジャロンマムー( Mamou.)の北 30 マイル (48 km) にある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%B3%E5%B7%9D
https://en.wikipedia.org/wiki/Bafing_River

Mali_zona_protegidas_wiki.jpg
(マリの保護地域 wikiより)

マグイ湖自然貯水池 Le Réservoir naturel du Lac Magui 2016年 ケイズ地方
マリ共和国の行政区であるケイズに位置するマグイ湖の自然遺産は、長さ 78 km、幅 15 km にわたって曲がりくねった道が続く盆地です。面積 24,740 ヘクタールのマグイは、いくつかの川が流れ込む常設の淡水湖です。マグイ湖には、アラムタなどの無人島がいくつかあります。
https://whc.unesco.org/fr/listesindicatives/6162/
https://rsis.ramsar.org/ris/2126

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マリの世界遺産 4

暫定リスト、まだ続きます。
激動の歴史の遺跡と砂漠の交易都市の遺跡ですね。
Mali_map02.jpg
(wikiより)
シカソのタタ Le Tata de Sikasso シカソ地方
シカソのタタ (防御壁)(地元の名前ではタラココ)は、サモリー・トゥーレの襲撃に抵抗するために、1877 年から 1897 年までティエバ・トラオレ(ケネドゥグー王)の統治下でシカソに最初に建設された一連の城壁です。その後、彼の兄弟で後継者であるバベンバ トラオレによって拡張されました。

1887 年 3 月から 1888 年 6 月までの 15 か月間続いたサモリー包囲戦が失敗に終わったとき、サモリーには 3 つの同心円状の囲いがありました。
最盛期のタタには次のものが含まれていました。
外側の要塞の長さは 9 km 、厚さは基部で 6 m 、上部で 2 m 、高さは 4 ~ 6 mの間で変化します。
商人、兵士、貴族を隔離することを目的とした、小さくて薄い中間要塞。
国王とその家族が住む都市の一部であるディオンフトゥを取り囲む内壁1。
要塞の遺跡は、マンコウラニ、メディナ、ワイエルマ、ブーグーラ市、フラソ地区など、シカソ市のさまざまな場所で今でも見ることができます。
https://whc.unesco.org/fr/listesindicatives/5443/
https://fr.wikipedia.org/wiki/Tata_de_Sikasso
https://en.wikipedia.org/wiki/Tata_of_Sikasso
AfricaOest1875_wiki.jpg
(wikiより)
ケネドゥグー王国 Kenedougou Kingdom c. 1650 ~ 1898 年
セヌフォ族のケネドゥグ王国は、17 世紀に現在のマリとブルキナファソの国境付近の地域で誕生しました。1876 年に首都はシカッソに移転されました。1887 年にワスールー帝国の指導者サモリ トゥーレの征服に抵抗し、1898 年にフランスの手に落ちたこの地域の最後の王国の 1 つでした。
https://en.wikipedia.org/wiki/History_of_Mali
https://en.wikipedia.org/wiki/K%C3%A9n%C3%A9dougou_Kingdom
Sikasso_wiki.jpg
(wikiより)
シカソは19世紀にマンサ・ドゥアラによって建設された。しばらくは小さな村だったが、1876年にケネドゥグ王国の国王となったティエバ・トラオレが、母親の出身地であったシカソに首都を移し、以後発展した。彼は街中の丘に宮殿を建設し、城壁を築いてジュラ族の征服者サモリ・トゥーレやフランス軍と戦った。街は1887年から1888年にかけて長期の包囲に耐えたが、1898年にフランス軍によって占領された。シカソの街が降伏した時、王であったティエバの兄バベンバ・トラオレはバンバラ語で「Saya ka fisa ni maloya ye」(恥辱よりも死を)との言葉を残し自害した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%82%AB%E3%82%BD

タタまたはタタ ソンバは、西アフリカにある古代の要塞です。この言葉は、村を囲む土壁、つまり囲いを指すこともあれば、要塞化された村自体、あるいは実際の要塞化された都市、政治的および軍事的中心地を指すこともあります
https://fr.wikipedia.org/wiki/Tata_(fortification)

TransSaharare_wiki.jpg
西サハラの交易路 c.1000~1500(wikiより)

エススーク Es-Souk キダル地方
マリのサハラ砂漠、アドラル・デス・イフォラス山塊のキダルの北45kmに位置する
エスーク(旧名タドメッカTadmekka)
エス スークの遺跡は長さ 1 km、幅 0.50 km にわたっています。それらには、家屋の遺跡、(まだ明確に定義された壁の高さが 50 cm 以上ある) モスク、四角形の囲いで特徴づけられたいくつかの墓地、石塚で示される明らかにイスラム以前の墓が含まれます。敷地周辺の多くの岩は岩の彫刻で覆われています。
紀元前 6000 年に遡る重要な岩石彫刻の遺跡が​​あります。
アダの古都タドメッカ(「あれはメッカ」)はエスーク(「市場」)とも呼ばれ、アフリカで最も古く、最も重要なトランスサハラ貿易都市の一つ
中世の町タドマッカ の遺跡は、現在の村の北東 2 km にあります。9 世紀から 15 世紀にかけて、タドメッカはサハラ横断貿易の重要な中継地としての役割を果たしました。
エスークの門にあるアダ(山塊)には、先史時代(旧石器時代と新石器時代)、古代、中世、ルネッサンス、そして現代に至るまでの数多くの史跡があります。先史時代の道具、洞窟の彫刻と絵画、リビコ・ベルベル人の文字(ティフィナグ)、人骨の化石(アセラール人)など。明るみに出た。
https://whc.unesco.org/fr/listesindicatives/1349/
https://fr.wikipedia.org/wiki/Essouk
https://en.wikipedia.org/wiki/Essouk

ガオのカンコウ・ムサ・モスク跡地 Site de la Mosquée de Kankou Moussa à Gao 2021年
ガオ市の古い地区、アルジャナバンジャ地区に位置するカンコウ ムサ モスクの敷地は、現在 35,100 平方メートル (3ha 51a) 。
この場所には、マンデン皇帝カンコウ ムサが 1324 年にメッカへの巡礼から戻った際に建てた歴史的なモスクがあった。
https://whc.unesco.org/fr/listesindicatives/6538/

マンデン皇帝カンコウ ムサ
「マンサ」はマリンケ語で皇帝あるいは王の中の王を意味する。
「ムーサ」は旧約聖書の預言者モーセ(ムーサー)と同じ、セム人風の名前である。
他に、「カンガ・ムーサ」「カンク・ムーサ」「カンカン・ムーサ」などの呼び名が伝わる。「カンガ・ムーサ」とは、「カンクの息子、ムーサ」を意味し、カンクは母親の名前である。これは当時のマンディンカ族が母系制社会を構築していたことを反映する。
マンサ・ムーサは、マリ帝国の9代目の王[1]。在位:1312年-1337年
現在の価値にして約4000億ドル(約40兆円)という人類史上最高の総資産を保有した。
1324年の派手なメッカ巡礼で著名である。巡礼の帰途、立ち寄ったマムルーク朝治下のカイロで、金相場を下落させるほど大量の金を惜しみなく分け与えた。この王の時代からマンサ・スレイマン(在位:1341年-1360年)の時代までにマリ帝国は最盛期を誇った。
敬虔なイスラム教徒であったムーサは、トンブクトゥやガオに数多くのモスクやマドラサ、マスジドを建設した。
UNESCOの世界遺産にも含まれる有名なトンブクトゥのジンガレー・ベルは、ムーサがアル=アンダルス生まれの文人アブー・イスハーク・サーヒリーをエジプトから招聘して建設させたと伝えられており、元はマドラサであった。
同じく世界遺産に登録されているサンコーレ・マドラサは、最盛期には2万5千人の学生を抱えていた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%82%B5%E3%83%BB%E3%83%A0%E3%83%BC%E3%82%B5

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マリの世界遺産 3

暫定リスト、続きます。
masina_wiki.png
1830年頃(wikiより)
ハムダラヒの歴史都市 La Cité Historique de Hamdallahi モプティ地方
歴史的な都市ハムダラヒ(ハムダラエHamdallaye,アムダラーイ)は、19世紀のディナ Diina(マシーナ帝国の都の遺跡で構成。
- 日干しレンガで作られたタタ(要塞壁))の残骸。
- 石の壁に囲まれたセコウ・アマドゥ宮殿。
- 宮殿の敷地内にある霊廟。
- 歴史的なハムダラヒ モスクの跡地に建てられた新しいモスク。
ハムダラエ(「神への賛美」の意味)
1818 年にセコウ アマドゥによって、マキナのフラニ帝国(ディナとも呼ばれるマシーナ帝国)の首都として設立
5,600 メートルの城壁を持つ要塞都市であり、推定 30 万人の人口が住む 60 の地区で構成されていました。 希望】。セコウ・アマドゥは宮殿に加えて、そこに大きなモスクを建てました。この都市には約 750 のコーラン学校がありました。
https://whc.unesco.org/fr/listesindicatives/5438/
https://en.wikipedia.org/wiki/Hamdullahi
Hamdullahi_niono_ggl.jpg
(googleより)
コモゲル モスク La Mosquée de Komoguel モプティ地方
Grande Mosquée de Mopti
一般にコモゲル モスクと呼ばれるモプティの大モスクは、礼拝室の建物の面積は530平方メートル。1908 年に建てられた初期のモスクの敷地に、 1933 年から 1935 年にかけてスーダン様式で建設されました。
https://whc.unesco.org/fr/listesindicatives/5442/
https://fr.wikipedia.org/wiki/Grande_Mosqu%C3%A9e_de_Mopti
mopti_archnet.jpg
(archnet)
ニオノの金曜モスク La grande mosquée de vendredi de Niono セグー地方
ニオノの大きな金曜モスクは、ジェンネの石工チームの作品です。1948 年に建設されたこの構造は、1955 年から 1956 年にかけて南側に 6 つの横スパンが追加されて拡張されました。1959 年に西側でさらに最終増築が行われました。
スダノ・サヘル建築様式の建物で、主に日干しレンガ、ヤシの木、粘土モルタルで作られています。モスクは内側に合計 68 本の柱がある列柱式のデザイン
https://whc.unesco.org/fr/listesindicatives/5440/
https://en.wikipedia.org/wiki/Great_Mosque_of_Niono

niono(AKDN).jpg
(AKDN)

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マリの世界遺産 2

暫定リストがすごいんですけど。
https://whc.unesco.org/en/statesparties/ml
さすが、古王国ガーナ、マリ発祥の地ですね。
フラニ族のマシーナ王国、バンバラ族のバンバラ王国などの小国も乱立。
さらには19世紀の半ばではトゥクロール帝国、サモリ帝国なども隆盛を極めたし。

クリコロ地域は、ガーナ帝国、ソッソ王国、マリ帝国など、マリで次々と続いたいくつかの大帝国の本拠地だった。
マンディンゴ国 (またはマンデ) はこの地域にあります。マリ帝国発祥の地であり、グリオットや狩猟民とともに伝統文化を守り続けてきました。
ケイズ地域は、17 世紀初頭に設立されたカッソ王国 Khasso の発祥の地。 崩壊するまで首都はメディーヌ Medine にあった。
https://fr.wikipedia.org/wiki/R%C3%A9gion_de_Koulikoro
https://fr.wikipedia.org/wiki/R%C3%A9gion_de_Kayes

Kangaba - Wiki.png
(wikiより)
マンデの史跡と文化的景観 Sites historiques et paysages culturels du Manden 2018年
クリコロ地方
「マンデンの史跡と文化的景観」と呼ばれる資産は、
カマブロン、カンガバの聖なる小屋 Kamabulon ou Case Sacrée de Kangaba
クルカン・フガの史跡、Site de KurukanFuga
カマンジャンの凱旋門L’Arche de Kamandjan
カマブロン、ケニエロの聖なる小屋、Kamablon ou Case Sacrée de Kéniéroからなる一連の資産である。
この施設は、マリ南部のマンデンの文化地域にあるカンガバとカティのサークルに位置
「マンデンの史跡と文化的景観」を構成する 4 つの遺跡は、13 世紀にスンディアタ ケイタによって建国されたマリ帝国の遺跡
https://whc.unesco.org/fr/listesindicatives/6280/

mandeTBS.jpg
(TBS)
カンガバはマリの町で、ベンカディコミューンとクリコロ地方のカンガバ圏の首都。
カンガバ (マリンケ語: Ka'ba ) は、マリ帝国発祥の地、マリの歴史地域マンデの中心部にある。
西アフリカの歴史的な地方区分「マンデ」は、このカンガバの町を中心とした地方である。マンデはマリ帝国揺籃の地ともなった。カンガバの町は現在のマリ共和国とギニア共和国の国境から50キロメートル離れたところに位置している。
Kamabulon_unesco.jpg
(unesco)
カンガバのカマブロン-カンガバの神聖な小屋
呪物を保存するカンガバの神聖な小屋(カマ ボロンと呼ばれる)の屋根は7 年ごとに修復されます。
これは、ケーラ((Kéla)隣の村)出身のディアバテ家(Diabaté)のグリオたちが天地創造の神話とケイタの系図を朗読する大規模な儀式の機会です。カマ・ボロンは1653 年に建てられた。
2011年3月16日、マリ政府は閣議で、7年ごとに行われるカマ・ボロンの屋根の葺き替えを国家的文化遺産に分類する暫定デクレ (政令)を採択した。
2009 年に人類の無形文化遺産の代表リストに登録された。
https://fr.wikipedia.org/wiki/Kamablon_de_Kangaba
https://fr.wikipedia.org/wiki/Kangaba
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%83%90

ケニエロの神聖な小屋であるカマブロンは、16 世紀にナバ ディオラ ケイタ、通称マンサ ディオラ ケイタによって建てられました。カンガバの小屋と同様、ケニエロ小屋は村の中心にある土(バンコ)に建てられた円形の建物で、円錐形の茅葺き屋根で覆われています。ケニエロのカマブロンの屋根の 7 年ごとの修復儀式には、マンデンのすべての住民、離散民、そしてナイアガッソラ (ギニア共和国) から来たディアバテ姓を持つグリオ人が集まります。

クルカン フガの史跡
1236年にスンジャタ・ケイタが「クルカン・フカ憲章」を宣言した場所、クルカン・フカ(Kurukan Fuka、クルカンの原)は、このカンガバであったとみなされている。クルカン・フカ憲章は、最初期の人権の普遍的な宣言であり、マリ帝国のいしずえになった。
この憲章は、2009 年に人類の無形文化遺産の代表リストに登録された。

スンディアタ叙事詩によれば、コウロウカン・フガ、あるいはクルカン・フガはクリナの戦い(1235年)の後、新たに設立された帝国のための政府を樹立するために貴族の集会によって制定されたマリ帝国の憲法である。
https://fr.wikipedia.org/wiki/Charte_du_Manden
https://en.wikipedia.org/wiki/Kouroukan_Fouga
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(wikiより)
カマンジャンの凱旋門は、シビ村の北西約 4 キロメートルに位置
アーチそのものに関しては、伝説によれば、それはスウンディアタ・ケイタの副官の一人であるカマンジャン・カマラのものであるとされています。
カマンジャンは権力とオカルトの力を誇示することによって、ソッソ王ソウマオロ・カンテと対峙し、軍の通路を空けるためにサーベルの一撃で花崗岩山塊の一部を彫刻したであろう。
この壮絶な行動にソウマオロ・カンテは恐怖を感じ、カマンジャン・カマラの軍隊との戦いを諦めた。それはマンデンの人々の記憶に強く刻まれている。
この場所には、アーチのほかに、ライオンの洞窟、占いの場所、犠牲の洞窟、岩の避難所、テリコウロウ遺跡が含まれている。

スンディアタ叙事詩
スンジャータは、英雄スンディアタケイタ( 1255 年に死亡)、マリ帝国の創始者の物語を語る叙事詩。13世紀のスンディアタ ケイタ王によるマリ帝国の建国を語るマンディンカ語の叙事詩。この叙事詩は口頭伝承の一例であり、13 世紀に遡り、何世代ものグリオット詩人またはジェリウ(ジェリ) によって語られてきた。
https://en.wikipedia.org/wiki/Epic_of_Sundiata

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ドゴン族の神話と宇宙

いやあ、びっくりしました。
ドゴン族とこんなところで再会するとは
ドゴン族の所在がマリだったとは…。
実はもうずいぶん昔、はじめて西アフリカについての本を見つけたのが、彼らの本だったのです。
もうどこで見つけたのかも覚えていませんが、図書館で探して借りてきて、でも西アフリカについての知識が何もなかった当時の自分にはとても手に負えなくて投げ出したのを覚えています。

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マルセル グリオール 『水の神 - ドゴン族の神話的世界』、訳坂井信三、竹沢尚一郎、せりか書房 1997
Dieu d'eau 1948
「西アフリカ、ニジェール河の大彎曲部に住むドゴン族-かれらの魂の真髄を伝える盲目の老賢者オゴテメリとの対話を詳細に記述した、ドゴン族の豊饒な宇宙を解き明かしたフランス民族学の成果。」

Renardpâle86mg.jpg

マルセル グリオール、 ジェルメーヌ ディルラン 『青い狐 - ドゴンの宇宙哲学』、訳坂井信三、せりか書房 1986
Renard pâle, ethnologie des Dogons 1965
「ドゴン族がシリウスB星の存在を知っていた」

ドゴン族は西アフリカのマリに住む人々。マリにおける彼らの総人口は 120 万人と推定。
彼らは、バンディアガラの崖からニジェールベンドの南西に広がるドゴンカントリーと呼ばれる地域を占めている。
ドゴン族は何よりも農民(主にアワ)と鍛冶屋。
彼らは宇宙観と彫刻で有名
口頭伝承によると、ドゴン族は11世紀 から13世紀の間にマリの南西部に位置するマンデ 地域を離れ2、山地に移住した。
もともと彼らはアニミストであり、イスラム教を受け入れることを拒否したためにマンデを去ったと言われている」
https://fr.wikipedia.org/wiki/Dogon_(peuple)
https://de.wikipedia.org/wiki/Dogon
https://en.wikipedia.org/wiki/Dogon_people

マルセル・グリオール(Marcel Griaule、1898年-1956
西アフリカ内陸部のサンガ(現在はマリ共和国領)に住むドゴン族の研究で知られる。サンガでフィールドワークを行った。
https://fr.wikipedia.org/wiki/Marcel_Griaule

アフリカの神話 2014-06-03

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マリの世界遺産

ちなみにマリの世界遺産は今のところ4カ所
ジェンネ旧市街 -(1988年)
トンブクトゥ -(1988年)
アスキアの墓 -(2004年)ガオ 15世紀末の遺跡
バンディアガラの断崖(ドゴン人の地)1989年
Mali_heritagewiki.jpg
(wiki より)
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ガオはサハラ縦断交易で栄えた交易都市トンブクトゥ、ジェンネと並ぶ貿易、学術の中心地の一つであり、
ソンガイ帝国(1340 - 1591) の首都であった。
ソンガイ帝国(Songhay、1464年–1590年)は、15世紀後半から16世紀にニジェール川湾曲部を中心に西スーダンのほぼ全域を事実上支配した黒人王国
アスキアの墓は、マリ共和国ガオ州のガオにある15世紀末の遺跡で、ソンガイ帝国最盛期の皇帝アスキア・ムハンマドの墓地と考えられている。
西アフリカのサヘル地帯における伝統的な泥の建造物群の優れた例証として、2004年にユネスコの世界遺産に登録された。
この遺跡には、ピラミッド状の墓、2つのモスク、墓地とその周辺が含まれている。
ピラミッド状の墓は高さ17メートルで、この地方の植民地化以前の建造物群の中では最大を誇る。
また、同時にこの地方に広がっていくこととなるイスラーム建築様式を採り入れた最初のものといわれる。
(wiki より)
https://whc.unesco.org/en/list/1139/
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%82%A2%E3%81%AE%E5%A2%93

バンディアガラの断崖 (ドゴンの地)Falaises de Bandiagara (pays dogon)
「モプティ地方 Mopti
ドゴン族居住地域となっている断崖。その壮観な自然環境と、マルセル・グリオールの紹介によって広く知られるようになったドゴン族の文化が保持されている地域。
バンディアガラ遺跡は、いくつかの美しい建築物 (家屋、穀倉、祭壇、聖域、トグ ナ、または共同集会所) を備えた崖と砂高原の傑出した景観。この地域には、古くからの社会的伝統がいくつか残っている (仮面、祝宴、儀式、先祖崇拝を伴う儀式など)。
地質学的、考古学的、民族学的興味とその景観により、バンディアガラ高原は西アフリカで最も印象的な場所の 1 つとなっている。」
https://whc.unesco.org/en/list/516/
Bandiagara_wiki.jpg

バンディアガラ
「 ドゴンの国」モプティ地方のバンディアガラ圏の首都 。
バンディアガラは、ドゴン族の狩猟者であるナンガバヌ テンベリによって 1770 年に設立されたと言われています。
また1864 年、エル ハジ ウマル トールの甥で後継者であるティディアーニ トールは、トゥクルール帝国の首都としてバンディアガラを選んだ。」https://en.wikipedia.org/wiki/Bandiagara

ティジャニーヤ・カリフ国 ( またはティジャニーヤ・ジハード国家、セグー・トゥクロール、トゥクロール帝国) (1861年–1890年)は19世紀中期にトゥクロール人のウマル・サイドゥ・タールによって建国された国。現在のマリ共和国に位置していた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%82%A5%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%AB%E5%B8%9D%E5%9B%BD

ドゴン族は西アフリカのマリに住む人々。
彼らは、バンディアガラの崖からニジェールベンドの南西に広がるドゴンカントリーと呼ばれる地域を占めている。
ドゴン族は何よりも農民(主にアワ)と鍛冶屋。彼らは宇宙観と彫刻で有名。
口頭伝承によると、ドゴン族は11世紀 から13世紀の間にマリの南西部に位置するマンデ 地域を離れ、山地に移住した。
もともと彼らはアニミストであり、イスラム教を受け入れることを拒否したためにマンデを去ったと言われている」
https://fr.wikipedia.org/wiki/Dogon_(peuple)

Ghana_reich_karte.jpg
ガーナ王国 8~11世紀
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Ghana_reich_karte.png

MALI_empire_wiki.jpg
Mali Empire c. 1230–1672(wiki より)

マリ帝国
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AA%E5%B8%9D%E5%9B%BD

SONGHAI_empire_wiki.jpg

ソンガイ帝国 1340 - 1591
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%82%A4%E5%B8%9D%E5%9B%BD

Mali_wikimapa01.jpg
(wiki より)

トンブクトゥ -についてはこちら
ニジェール川 2021-02-02

西アフリカとスイカと太平洋の本 2015-06-24
ガオについて

古代ガーナ王国 2021/04/29

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ジェンネのモスク(マリ)

ジェンネのモスク(マリ)が載っている本、まとめてみました

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空から見る驚異の歴史シリーズ 
世界の大聖堂・寺院・モスク 2006
アンリ・スティルラン/[編]著 /森山隆訳 創元社
«Notre histoire lue du ciel»
Cathédrales, temples et mosquées
Henri Stierlin

worldsmustseeplaces2013.jpg

世界歴史建築大図鑑
ドーリングキンダースリー (著), 坂崎 竜 (翻訳)
原書房 – 2013
world's must-see place
Dorling Kindersley

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アンソニー・ブリアリー著、古賀浩訳 
『古代アフリカ(古代遺跡シリーズ)』 
ニュートンプレス、1997年。

africaanc2013natiogeo.jpg
古代アフリカ―400万年前の人類と消えた王国 巨大大陸の謎を追う
(ナショナルジオグラフィック 考古学の探検)

ヴィクトリア シャーロー (著), ジェイムズ デンボー (監修), 赤尾 秀子 (翻訳)
BL出版 (2013


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週刊ユネスコ世界遺産 No.85 2002年 7/25号
マリ 伝説の都市トンブクトゥ,ジェンネの旧市街
伊藤 裕 (編集) 講談社 (2002

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ユネスコ世界遺産 11 北・西アフリカ
ユネスコ世界遺産センター 監修、 講談社 1998

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ディアゴスティーニ
世界遺産DVDコレクション31
カイロ・マラケシュ・ジェンネ

2005


千年の古都ジェンネ 2021-04-23

アフリカの世界遺産 2021-05-09

マリのいにしえの記憶 2021-04-25

トンブクトゥ ディアゴスティーニ版 2021-04-30

トンブクトゥ 2021-02-04

古代アフリカ(考古学の探検)) 2021-05-10

あけましておめでとうございます

あけましておめでとうございます
今年もよろしくお願いいたします。

nenga2024.jpg

アフリカの世界遺産シリーズ
最初はトンブクトゥのモスクを描いてもらう予定だったのですが、良い写真が見つからなくて、ジェンネのモスクになりました。
マリの世界遺産です。
MALI_empire_wiki.jpg
Mali Empire c. 1230–1672(wiki より)
「ジェンネ(Djenné)は、マリ共和国モプティ州の都市で、モプティ市からは130km、首都バマコからは574kmのところにある。 ジェンネは遊牧民と定住民の橋渡しとなる都市であり、サハラ交易の要衝となっていた。 商業的に結びついているトンブクトゥからは、川伝いに500km離れており、この二つの都市はかつて「双子の姉妹」と称された。 なお、「ジェンネ」はボゾ語で「水の精霊」の意味」

「ジェンネの大モスク
ジェンネ旧市街の象徴といえる泥の建造物が、巨大な泥塗りのモスクである。1280年ごろに、イスラームに改宗したジェンネ王コワ・コアンボロが宮殿を壊し、跡地に壮麗なモスクを建てたのが起源である。

1819年にジェンネがセク・アマドゥのマシナ帝国に屈した際、モスクは新しいものを建設するために取り壊されてしまった。その後、フランス植民地総督ウィリアム・メルロ=ポンティ (William Merlaud-Ponty) は、イスラーム指導者アルマミ・ソンフォ (Almamy Sonfo) の要請を受け入れて、コイ・コウンボロ王の壮麗なモスクを再現することを1906年10月に決定した。この再建工事は翌年10月1日に完成した。

屋根が100本の柱で支えられている大モスクは、奥行き75m、高さ20mで、1000人の信徒を収容できる。表面の材質は泥のため、町の住民で分担して毎年塗り直しが行われる。 」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%83%8D

Mali_heritagewiki.jpg
(wiki より)

ちなみにマリの世界遺産は今のところ4カ所
ジェンネ旧市街 -(1988年)
トンブクトゥ -(1988年)
アスキアの墓 -(2004年)ガオ 15世紀末の遺跡
バンディアガラの断崖(ドゴン人の地)1989年
Mali_wikimapa01.jpg
(wiki より)
さすがにアフリカには行っていませんが、
去年はまたまたアフリカ映画にハマって、バーチャル気分で駆け回っています。
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