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2012-09-04

フラクシネトゥム

先日近所の図書館で、改めて歴史地図を探してみました。
すると『朝日=タイムズ世界歴史地図』に
探していたジェノヴァ軍のチュニジア攻撃の図が載っていました!
やった~!
う~ん、侮れない!と反省したのですが、

さらに解説に…
<950年の地中海はほぼ完全に”イスラーム教徒の湖”だった。…(略)
西地中海の交易はサラセン人が地中海諸島を掌握し、
リギュリア海岸のフラクシネトゥムに基地をおいていた間は変わらなかった。
972年のこの基地の奪還は大事件だった。
これ以降、ヨーロッパは徐々に地中海北岸を奪回していく。>

え?え?
フラクシネトゥム?
何それ?どこ?

ググッてみたら、ある論文の概要が見つかって、
<十世紀にイスラム海賊の巣窟として悪名を馳せた。
フラクシネトゥムは一本道の隘路の山城。
フラクシネトゥムを陥落させたのが、
ビザンツ海軍とオットー一世との連合軍>
(竹部 隆昌 九-十世紀イスラム脅威下のビザンツ=西方関係)
http://kaken.nii.ac.jp/d/p/16520449.en.html 
(県立長崎シーボルト大学教授-中​世​南​イ​タ​リ​ア​に​お​け​る​西​欧​、​ビ​ザ​ン​ツ​、​イ​ス​ラ​ム​間​の​交​渉​史​研​究)

え?え?ええ~?

<10世紀の西欧世界において,イスラームは「略奪者」として捉えられていた。
彼らは,地中海沿岸のみならず,内陸にまで進出し,略奪を行なった。
…オットー大帝のもとに,後ウマイヤ朝第8代アミール,
後ウマイヤ朝を最盛期に導いたアブドゥッラフマーン3世が
使節を派遣した。この使節の目的は,
仏サン=トロペ湾のフラクシネトゥムFlaxinetum-la garde freinetを根城とし,
交易を阻害するサラセン人海賊の討伐に関わることであったと思われる>
(矢内義顕  ゴルツェのヨハンネスとイスラーム )
http://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/31843/1/BunkaRonsyu_29_00_001_Yauchi.pdf
(早稲田大学教授-ヨーロッパ中世の哲学・中世神学、修道院神学 )

で、やっと現在の地名が判明。

<9世紀になると、西からはイスラーム教徒が
シチリアや南イタリアを襲撃して、200年間定住し続け、
またプロバンスのラ・ギャルド・フレネ(フラクシネトゥム)に略奪拠点をおく。>
(西ヨーロッパを揺さぶるヴァイキング~海上交易の世界と歴史
http://www31.ocn.ne.jp/~ysino/koekisi3/page016.html) 

南仏のラ・ガルド・フレネla garde freinet
ニースとマルセイユの間、カンヌの西。サン・トロペ湾の奥。

<889年アル・アンダルス出身のベルベル人・サラセン海賊が、
プロヴァンスのサン・トロペ湾に上陸すると、
近郊のフラクシネートゥム(ラガルド-フレネ)に基地を築き、
以後80余年に渡ってプロヴァンスばかりでなく北西イタリアの内陸部深く侵入し、
アルプス山脈の要衝(グラン・サン・ベルナール峠)を縄張りとした。>
(№916(2009/05/05) 中世プロヴァンス物語 2
http://www.geocities.jp/baseball_wind21/wind10/wind916.html)

<711年、イベリア半島の西ゴート王国を征服したサラセン帝国(ウマイア朝)が
ピレネー山脈を超え、フランク王国内に侵入。
732年トゥール・ポワティエ間の戦いで
フランク王国宮宰カール・マルテル(688-741)がこれを撃破。
この敗戦によりサラセン人はフランス南東部まで撤退。
サントロペ近郊のラ=ガルド=フレネに立てこもり、
プロヴァンスを2世紀わたり蹂躙した。
そのため土地の者たちは、エズやヴァンスといった、
攻めにくく守りやすい山岳部頂上付近に、
「鷹の巣村(VILLAGES PERCHES)」をつくり、堅固な塀で囲んで要塞化した。

972年ボゾン家のアルル伯ギョームが
プロヴァンス(ラ=ガルド=フレネ)のサラセン人を駆逐し、解放伯とよばれた。
ギョームはプロヴァンス伯の始祖される。
サラセンの脅威が去った西地中海沿岸の北イタリアと南フランスで交易が復活していく。>
(№832(2008/04/12) オクシタニア十字
http://www.geocities.jp/baseball_wind21/wind9/wind832.html) 

<北イタリアのピサやジェノヴァは、
南イタリアのビザンツ系都市にくらべれば、その発展は遅かった。
それは中世にはイベリア半島を支配下に置いたサラセン勢力が
西地中海に進出しており、ティレニア海北部は
プロヴァンスのラ=ガルド=フレネ(サントロペ近郊)を拠点とした
サラセンの脅威にさらされていたからであった。

972年プロヴァンス伯ギョームがサラセンを駆逐すると、
ピサの海洋進出が始まった。
手始めは1015年頃にサラセン勢力のサルデーニャ島進出に対抗した時であり、
この時はジェノヴァと同盟して島からサラセン勢力を駆逐し、
ピサは島の北部をジェノヴァは中部と東部を保護領とした。

アフリカでは、1034年にアルジェリアのボナ(現アンナバ)、
1087年にチュニジアのマーディーア、
ついでバレアレス諸島(マジョルカ島)を強襲して、勝利を収める。
これらの遠征によって、ピサは西地中海の制海権を確保する。>
(№831(2008/04/11) ピサ共和国
http://www.geocities.jp/baseball_wind21/wind9/wind831.html)

<888年ヴェルフ家のルドルフ1世が
ジュラ山脈以北の上ブルグントにブルグント王国(ユーラ・ブルグント王国)を建国、
子のルドルフ2世のとき、933年にキスユラ・ブルグント王国に侵攻し、
これを併合、「ブルグント王国」を統一、
首都をアルルに置いたためアルル王国と呼ばれた。

972年ボゾー家のアルル伯ギョームが
プロヴァンス(ラ=ガルド=フレネ)のサラセン人(イスラム教徒)を駆逐し、
解放伯とよばれた。ギョームはプロヴァンス伯の始祖される。>
 (№899(2009/01/10) オランジュ公国 その2
http://www.geocities.jp/baseball_wind21/wind9/wind899.html)

そして地図が!
http://en.wikipedia.org/wiki/File:Karte_Hoch_und_Niederburgund_EN.png
http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Map_Kingdom_Arelat_EN.png?uselang=ja

Kingdom of Arles(Second Kingdom of Burgundy)
http://en.wikipedia.org/wiki/Kingdom_of_Arles
アルル王国http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%AB%E7%8E%8B%E5%9B%BD
ブルグント王国http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%AB%E3%82%B0%E3%83%B3%E3%83%88%E7%8E%8B%E5%9B%BD
この辺はまだ未踏の地でした。

もう一度、他の地図を探してみたら、
「大陸別ヨーロッパ」にも載っていました! 
気がつかないって恐ろしい! 
これだから、地図は怖いんです。
見る目によって、本当に色々な情報が隠れている!

<8世紀初めに北アフリカからイベリア半島まで征服していた
イスラーム勢力は地中海へい進出を続け、
シチリアを827年までに征服(ここまでは知っていました)、
チュニジアのアグラブ王朝はバレアレス諸島、
サルディーニャ、コルシカ、イタリア南部にも拠点を築き、
(これも最近、チュニジアを調べて知りました)
コルドバ、またはアグラブ朝が送った一部隊は
ヨーロッパ南部の内陸を攻略する基地として、
プロヴァンスのフラクシネトゥムを使っていた。
イスラーム勢力は、ローマを含むイタリアの諸都市や修道院を
襲っては略奪や身代金の要求を行い、
アグラブ朝の艦隊は地中海中部に君臨した。>
(火と剣-異教徒との戦い~大陸別世界歴史地図1 ヨーロッパ大陸歴史地図 東洋書林 (2001)
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