2014-04-26
ハガードの世界7
ハガードが、本当のソロモン王の鉱山があったところと想定した場所。
コンゴ共和国(ザイール?)の南東端の辺りについて
さらに面白いのは、もう少し北へ行くと、
「駆け込み寺」ならぬ「かけこみの森」ともいえる社会が
ザイール川中流域のキサンガニ(「川の中」・旧スタンレーヴィル)周辺にあったらしいことだ。
この辺りは最後まで「地理的発見」の行われない地図の作られぬ未知の世界だった。
1877年にスタンレーによる「アフリカ最後の探検」で
ザイール川の全容が明るみになるまで、
「最後の暗黒の地」として「残された地」がヨーロッパ人の前に立ちはだかっていたという。
植民地時代前夜には、
西から東から北から南から、様々な小民族集団が集まってきたという。
下流からはコンゴ王国を媒介とした奴隷の徴集を逃れて、
東部からはイスラーム化の波に抵抗して、
北からはアザンデ人の支配を逃れて、
森の中に入って棲み分けながら居住圏を獲得し、
小民族社会が林立する特徴的な焼き畑農耕社会を形成してきたという。
ザイール川水界の世界は、この森を抱くことによって、
王国の支配の及ばない「自由の場」を確保して、
広汎で強大な国家の成立を抑制してきたのかもしれないとのこと。
(杉村和彦『新書アフリカ史』)
ザイール
「すべての川を呑み込む川」古代コンゴ語「ンザンディ」「ンゼレ」を
ポルトカル人が誤って発音
(杉村和彦『新書アフリカ史』)
コンゴ共和国(ザイール?)の南東端の辺りについて
さらに面白いのは、もう少し北へ行くと、
「駆け込み寺」ならぬ「かけこみの森」ともいえる社会が
ザイール川中流域のキサンガニ(「川の中」・旧スタンレーヴィル)周辺にあったらしいことだ。
この辺りは最後まで「地理的発見」の行われない地図の作られぬ未知の世界だった。
1877年にスタンレーによる「アフリカ最後の探検」で
ザイール川の全容が明るみになるまで、
「最後の暗黒の地」として「残された地」がヨーロッパ人の前に立ちはだかっていたという。
植民地時代前夜には、
西から東から北から南から、様々な小民族集団が集まってきたという。
下流からはコンゴ王国を媒介とした奴隷の徴集を逃れて、
東部からはイスラーム化の波に抵抗して、
北からはアザンデ人の支配を逃れて、
森の中に入って棲み分けながら居住圏を獲得し、
小民族社会が林立する特徴的な焼き畑農耕社会を形成してきたという。
ザイール川水界の世界は、この森を抱くことによって、
王国の支配の及ばない「自由の場」を確保して、
広汎で強大な国家の成立を抑制してきたのかもしれないとのこと。
(杉村和彦『新書アフリカ史』)
ザイール
「すべての川を呑み込む川」古代コンゴ語「ンザンディ」「ンゼレ」を
ポルトカル人が誤って発音
(杉村和彦『新書アフリカ史』)
スポンサーサイト