2016-06-27
中央アジアの文化遺産3
午後の講演のメモ 追加
カザフスタン
北部のボタイ遺跡
<馬の骨が大量に発掘された遺跡
ボタイ遺跡は銅石器時代の集落址で、
1970年代から1980年代にかけての15シーズンにわたる調査で
30万点(10万トン)にのぼる骨の資料が出土し、そのうち99.9パーセントが馬の骨であった。
(この遺跡の)補正された年代は、5500~5000年前とされている。
その後馬の骨の放射性炭素による年代測定で、
馬の頭骨は前790~前520年、歯は前410~前200年とわかり、
この馬に関しては後世のスキタイ時代の埋納と訂正せざるを得なくなってしまった。>
「スキタイと匈奴 遊牧の文明」林俊雄 講談社
デレイフカ遺跡とボタイ遺跡/馬の騎乗はいつからか? 11/02/24
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=246216
<カザフスタンのボタイ遺跡からは紀元前3500年頃の馬遺体が多数出土している[6]。
ボタイ遺跡の馬遺体は後述のデレイフカ遺跡の事例と同様に馬の頭骨埋納とみられる出土事例があり、
馬を制御するための馬具である銜(はみ)痕が確認される[7]。
さらに出土した土器から馬乳に由来する脂肪酸が検出されていることから
家畜化が進行していた可能性が考えられている[8]。>
『甲斐の黒駒-歴史を動かした馬たち-』山梨県立博物館、2014年>
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%83%95%E3%82%AB%E9%81%BA%E8%B7%A1
<カザフスタンのバクタルマ (Bukhtarma) 谷にあるベレル (Berel) 墓地の11号墳 (クルガン) には、
紀元前300年頃の墓が1998年に発掘調査された。
この墓には、12体の殉葬された馬が皮膚や体毛や轡などの馬具、
そして完全な形の鞍がつけられた状態で確認された。
これらの馬は、盗掘で荒らされた二体のスキタイ貴族の遺体のある玄室の隣に、
白樺樹皮の「ベッド」に隣り合わせに並べて葬られていた。>
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%82%AC%E3%83%B3
<アルマティ カザフスタン国立中央博物館 「黄金人間」
アルマトイ近郊のイッシク古墳から出土したもののレプリカ
紀元前4~前3世紀ころのサカ族の王子と考えられます。>
http://www.isekineko.jp/kazakhstan-almaty.html
Issyk kurgan
https://en.wikipedia.org/wiki/Issyk_kurgan
<カザフスタン南部のアルアマタの東方約50kmに位置するイシク=クルガン (Issyk kurgan) では、
女性と思われる遺体が葬られていることが1996年の調査で確認された。
カザフスタンの婚姻に用いられる庇付き帽子状の冠を含めた4000個体もの黄金製品が副葬品として確認された。>
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%82%AC%E3%83%B3
L.I.アルバウム、B.ブレンチェス(大林太良監訳 樋口大介、高浜秀訳)
『黄金の番人-古代の中部アジア-』泰流社(1983)
<サルマタイの名が初めて登場するのは紀元前4世紀のギリシアの著作である。
それ以前はヘロドトスなどに記されたように、サウロマタイという名前のよく似た民族が登場していた。
サウロマタイはサルマタイの直接の祖先とされ、
考古学的にはドン川から西カザフスタンにいたるまでの
地域における紀元前7世紀から紀元前4世紀の文化をサウロマタイ文化とし、
それに続く文化をサルマタイ文化(紀元前4世紀 - 紀元前2世紀)としている。>
護・岡田編 1990:『中央ユーラシアの世界』 護雅夫・岡田英弘、山川出版社〈民族の世界史 4〉、1990年
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%82%BF%E3%82%A4
タムガリは、カザフスタンのアルマトイ州にある峡谷である。
<最大都市アルマトイからは北西に約180 km のところにある。
一帯には紀元前14世紀以降に描かれた5000点にのぼる岩絵(線刻画)群が残されており、
周辺に残る住居跡や祭祀場跡と推測されている遺跡群とともに、
中央アジアにおける傑出した文化的景観を形成している。
2004年には、中央アジアに残る岩絵群の中で、初めてユネスコの世界遺産リストに登録された。>
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%A0%E3%82%AC%E3%83%AA
https://en.wikipedia.org/wiki/Tamgaly
サウラン遺跡
Sauran
Сауран
https://kk.wikipedia.org/wiki/%D0%A1%D0%B0%D1%83%D1%80%D0%B0%D0%BD
https://ru.wikipedia.org/wiki/%D0%A1%D0%B0%D1%83%D1%80%D0%B0%D0%BD
カザフスタン南部の都市サウランの最新調査と新発見
http://dspace.lib.kanazawa-u.ac.jp/dspace/bitstream/2297/24944/1/AA12423175-67-19-26.pdf
<モンゴル帝国時代の遺跡がある。保存状態がとてもよく当時の門や通路、城壁などが残っている。>
The intimate ruins of Sauran, Kazakhstan
http://caravanistan.com/places/sauran/
オトラル
<オトラル (Otrar) は、中央アジアの歴史的都市遺跡。
シル川中流の右岸、支流アリス川との合流点近く(現カザフスタン南部南カザフスタン州)に位置する。
旧称はバーラーブ(Bārāb/Fārāb)[1]。>
<13世紀にモンゴル帝国により攻略され、徹底的な破壊を受けた。
その後復興して数百年にわたって栄えたが、のちに衰亡し、現在は内城の廃墟が残るのみである。>
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%AB
<1218年、チンギス・ハーンはホラズム王国の町オトラルに使節団を送ります。
しかしオトラルの城主は使節団を皆殺しにしたため、翌年チンギス・ハーンは報復のためオトラルの町を攻め落とします。
この「オトラル事件」を機に、チンギス・ハーンの西方遠征が始まり、遠くヨーロッパまで遠征することになります。
また、オトラルは1405年、中国遠征の途中でチムールが没した場所でもあり、歴史上とても意義深い町です。 >
http://www.saiyu.co.jp/special/central_asia/midokoro/kazakhstan/
カザフスタン
北部のボタイ遺跡
<馬の骨が大量に発掘された遺跡
ボタイ遺跡は銅石器時代の集落址で、
1970年代から1980年代にかけての15シーズンにわたる調査で
30万点(10万トン)にのぼる骨の資料が出土し、そのうち99.9パーセントが馬の骨であった。
(この遺跡の)補正された年代は、5500~5000年前とされている。
その後馬の骨の放射性炭素による年代測定で、
馬の頭骨は前790~前520年、歯は前410~前200年とわかり、
この馬に関しては後世のスキタイ時代の埋納と訂正せざるを得なくなってしまった。>
「スキタイと匈奴 遊牧の文明」林俊雄 講談社
デレイフカ遺跡とボタイ遺跡/馬の騎乗はいつからか? 11/02/24
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=246216
<カザフスタンのボタイ遺跡からは紀元前3500年頃の馬遺体が多数出土している[6]。
ボタイ遺跡の馬遺体は後述のデレイフカ遺跡の事例と同様に馬の頭骨埋納とみられる出土事例があり、
馬を制御するための馬具である銜(はみ)痕が確認される[7]。
さらに出土した土器から馬乳に由来する脂肪酸が検出されていることから
家畜化が進行していた可能性が考えられている[8]。>
『甲斐の黒駒-歴史を動かした馬たち-』山梨県立博物館、2014年>
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%83%95%E3%82%AB%E9%81%BA%E8%B7%A1
<カザフスタンのバクタルマ (Bukhtarma) 谷にあるベレル (Berel) 墓地の11号墳 (クルガン) には、
紀元前300年頃の墓が1998年に発掘調査された。
この墓には、12体の殉葬された馬が皮膚や体毛や轡などの馬具、
そして完全な形の鞍がつけられた状態で確認された。
これらの馬は、盗掘で荒らされた二体のスキタイ貴族の遺体のある玄室の隣に、
白樺樹皮の「ベッド」に隣り合わせに並べて葬られていた。>
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%82%AC%E3%83%B3
<アルマティ カザフスタン国立中央博物館 「黄金人間」
アルマトイ近郊のイッシク古墳から出土したもののレプリカ
紀元前4~前3世紀ころのサカ族の王子と考えられます。>
http://www.isekineko.jp/kazakhstan-almaty.html
Issyk kurgan
https://en.wikipedia.org/wiki/Issyk_kurgan
<カザフスタン南部のアルアマタの東方約50kmに位置するイシク=クルガン (Issyk kurgan) では、
女性と思われる遺体が葬られていることが1996年の調査で確認された。
カザフスタンの婚姻に用いられる庇付き帽子状の冠を含めた4000個体もの黄金製品が副葬品として確認された。>
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%82%AC%E3%83%B3
L.I.アルバウム、B.ブレンチェス(大林太良監訳 樋口大介、高浜秀訳)
『黄金の番人-古代の中部アジア-』泰流社(1983)
<サルマタイの名が初めて登場するのは紀元前4世紀のギリシアの著作である。
それ以前はヘロドトスなどに記されたように、サウロマタイという名前のよく似た民族が登場していた。
サウロマタイはサルマタイの直接の祖先とされ、
考古学的にはドン川から西カザフスタンにいたるまでの
地域における紀元前7世紀から紀元前4世紀の文化をサウロマタイ文化とし、
それに続く文化をサルマタイ文化(紀元前4世紀 - 紀元前2世紀)としている。>
護・岡田編 1990:『中央ユーラシアの世界』 護雅夫・岡田英弘、山川出版社〈民族の世界史 4〉、1990年
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%82%BF%E3%82%A4
タムガリは、カザフスタンのアルマトイ州にある峡谷である。
<最大都市アルマトイからは北西に約180 km のところにある。
一帯には紀元前14世紀以降に描かれた5000点にのぼる岩絵(線刻画)群が残されており、
周辺に残る住居跡や祭祀場跡と推測されている遺跡群とともに、
中央アジアにおける傑出した文化的景観を形成している。
2004年には、中央アジアに残る岩絵群の中で、初めてユネスコの世界遺産リストに登録された。>
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%A0%E3%82%AC%E3%83%AA
https://en.wikipedia.org/wiki/Tamgaly
サウラン遺跡
Sauran
Сауран
https://kk.wikipedia.org/wiki/%D0%A1%D0%B0%D1%83%D1%80%D0%B0%D0%BD
https://ru.wikipedia.org/wiki/%D0%A1%D0%B0%D1%83%D1%80%D0%B0%D0%BD
カザフスタン南部の都市サウランの最新調査と新発見
http://dspace.lib.kanazawa-u.ac.jp/dspace/bitstream/2297/24944/1/AA12423175-67-19-26.pdf
<モンゴル帝国時代の遺跡がある。保存状態がとてもよく当時の門や通路、城壁などが残っている。>
The intimate ruins of Sauran, Kazakhstan
http://caravanistan.com/places/sauran/
オトラル
<オトラル (Otrar) は、中央アジアの歴史的都市遺跡。
シル川中流の右岸、支流アリス川との合流点近く(現カザフスタン南部南カザフスタン州)に位置する。
旧称はバーラーブ(Bārāb/Fārāb)[1]。>
<13世紀にモンゴル帝国により攻略され、徹底的な破壊を受けた。
その後復興して数百年にわたって栄えたが、のちに衰亡し、現在は内城の廃墟が残るのみである。>
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%AB
<1218年、チンギス・ハーンはホラズム王国の町オトラルに使節団を送ります。
しかしオトラルの城主は使節団を皆殺しにしたため、翌年チンギス・ハーンは報復のためオトラルの町を攻め落とします。
この「オトラル事件」を機に、チンギス・ハーンの西方遠征が始まり、遠くヨーロッパまで遠征することになります。
また、オトラルは1405年、中国遠征の途中でチムールが没した場所でもあり、歴史上とても意義深い町です。 >
http://www.saiyu.co.jp/special/central_asia/midokoro/kazakhstan/
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