2016-11-26
家康以前の江戸2
結局さかのぼって、1冊目に取りかかっています。

『江戸と江戸城-家康入城まで』
鈴木 理生 新人物往来社、1975年
家康以前の江戸城
道灌の江戸城の前に
江戸氏の江戸城があった。
道灌の江戸城の後に
扇谷上杉氏時代の江戸城
後北条氏時代の江戸城があった。
何故道灌が、家康が江戸に本拠地を構えるに至ったか?
「ミナト」説
「ヤマト」の対立概念としての「ミナト」は川辺や低地、海や湖沼のほとりの船の住人、「水人」
「水戸」=「ミナト」
「人」が「戸」に置き換えられた例 「船戸」→「船人」、長門→流人(渡来人)
(山崎 謙 霞ケ浦湖賊 古代東国のゲリラたち 新人物往来社 1972)
『古事記』『日本書紀』当時の東海道
東京湾航路は古来から、三浦半島と房総半島を結ぶ横断航路と
東京湾口から湾奥の江戸に至る縦断航路の2つの航路をもつ人々の系譜ないしは系統が
長期間にわたって存在していた海域
仏教伝来
浅草寺の浅草観音は寺伝によると628年から
(日本への仏教伝来は記録によると552年)
大化の改新(645)以来、百済、高麗、新羅からの渡来人が武蔵国へ多数流入(『続日本紀』)
渡来人の橋頭堡?
「ミナト」~官の記録に記載されなかった多くの人々の流れが、
西国・近畿地方から東海道沿岸沿いに東国に流入していたであろう
(日本列島の原住民か?
朝鮮半島からの渡来人か?
中国南部を含む黒潮を利用した『海上の道』をたどってきた人々か?)
『続日本紀』の設置された高麗郡や新羅郡は内陸部だが、利根・荒川の大河の舟運に連なる地域
武蔵国の水上交通の拠点「ミナト」が浅草だった
聖観音は渡来人の船着場のシンボルだった?
善光寺の場合
浅草観音と同様の伝説のある長野の善光寺(602年)は浅草観音の26年前
信濃の場合は海人族のアズミ(安曇)氏が河川をさかのぼり、内陸部へ
(天竜川は長野県諏訪湖から愛知県、静岡県を経て太平洋へ注いでいる)
「ミナト」江戸の条件
浅草からさらに海寄りの平川河口付近~「江戸」
大河の洪水に安全、海からの波も激しくなく、内陸に通じる適当な規模の河川、浅草より東京湾寄りにある
浅草の問題点(風雨や洪水)をクリア
江戸の神「明神」
元来は平将門を祭っていた
730年安房国の漁民が安房神社の祭神を擁して江戸前島に移住~江戸に「海」の神が入ってきた
黒潮に乗って太平洋沿岸づたいに西日本から北上してきた海神を祖とする安曇氏を首長とする海部族の進出
(海部族は駿河湾-房総半島-鹿島灘-松島湾まで、 日本海側は北陸、佐渡まで)
(織田完之 平将門故蹟考 碑文協会 明治40年
築土神社誌
赤城 宗徳 平将門 角川書店 1970
小村孝治 将門を祀る神田明神)
平将門(940年没・下総国豊田郡の豪族)は「ミナト」(関東原住民?)と合流、
勢力を拡大、利根川左岸(東関東)の大半を制する
京都の律令政府にとっては反逆行為、将門追討、殺される
将門滅亡後、将門の残党の一部が江戸に移住
神田明神の一郭に将門塚(首塚)を築き、江戸先住民の「ミナト」と合流
(旧武蔵国豊嶋郡芝崎村-現大手町)
将門は「東国」における中心的ミナトである江戸の神となった
神田明神、将門塚は平川が海(日比谷入江)に注ぐ、江戸湊の地
江戸-東京はここを核として発達
山王権現
現在の日枝神社(永田町)の古称
本来は比叡山延暦寺の守護神
(日枝山(比叡山)の山岳信仰、神道、天台宗が融合して成立した、延暦寺の鎮守神-wiki)
浅草寺の地主神?
浅草寺を建立し維持してきた人々と先住民、後住民との習合
(秩父平氏の江戸氏の鎮守様として山王宮が平川(いまの皇居平河門付近)にまつられていました。
のち、この江戸氏を追って、文明10年(1478)太田道灌が江戸城の主になると、
川越から山王を移して今の皇居東御苑の北側に祀りました。-千代田区観光協会
http://www.kanko-chiyoda.jp/tabid/896/Default.aspx
武蔵野開拓の祖神・江戸の郷の守護神として江戸氏が山王宮を祀り、
さらに文明10年(1478)太田道灌公が江戸の地を相して築城するにあたり、
鎮護の神として川越山王社を勧請し、神威赫赫として江戸の町の繁栄の礎を築きました。-日枝神社
http://www.hiejinja.net/about/venerable.php)
東国の俘囚
「俘囚」-京都政権の武力侵略による捕虜
俘囚の反乱の本場(848年、875年、883年)は将門の独立政権の舞台とほとんど重なっている
利根川以東(東関東)
ふう。ここまででまだ江戸氏以前…

『江戸と江戸城-家康入城まで』
鈴木 理生 新人物往来社、1975年
家康以前の江戸城
道灌の江戸城の前に
江戸氏の江戸城があった。
道灌の江戸城の後に
扇谷上杉氏時代の江戸城
後北条氏時代の江戸城があった。
何故道灌が、家康が江戸に本拠地を構えるに至ったか?
「ミナト」説
「ヤマト」の対立概念としての「ミナト」は川辺や低地、海や湖沼のほとりの船の住人、「水人」
「水戸」=「ミナト」
「人」が「戸」に置き換えられた例 「船戸」→「船人」、長門→流人(渡来人)
(山崎 謙 霞ケ浦湖賊 古代東国のゲリラたち 新人物往来社 1972)
『古事記』『日本書紀』当時の東海道
東京湾航路は古来から、三浦半島と房総半島を結ぶ横断航路と
東京湾口から湾奥の江戸に至る縦断航路の2つの航路をもつ人々の系譜ないしは系統が
長期間にわたって存在していた海域
仏教伝来
浅草寺の浅草観音は寺伝によると628年から
(日本への仏教伝来は記録によると552年)
大化の改新(645)以来、百済、高麗、新羅からの渡来人が武蔵国へ多数流入(『続日本紀』)
渡来人の橋頭堡?
「ミナト」~官の記録に記載されなかった多くの人々の流れが、
西国・近畿地方から東海道沿岸沿いに東国に流入していたであろう
(日本列島の原住民か?
朝鮮半島からの渡来人か?
中国南部を含む黒潮を利用した『海上の道』をたどってきた人々か?)
『続日本紀』の設置された高麗郡や新羅郡は内陸部だが、利根・荒川の大河の舟運に連なる地域
武蔵国の水上交通の拠点「ミナト」が浅草だった
聖観音は渡来人の船着場のシンボルだった?
善光寺の場合
浅草観音と同様の伝説のある長野の善光寺(602年)は浅草観音の26年前
信濃の場合は海人族のアズミ(安曇)氏が河川をさかのぼり、内陸部へ
(天竜川は長野県諏訪湖から愛知県、静岡県を経て太平洋へ注いでいる)
「ミナト」江戸の条件
浅草からさらに海寄りの平川河口付近~「江戸」
大河の洪水に安全、海からの波も激しくなく、内陸に通じる適当な規模の河川、浅草より東京湾寄りにある
浅草の問題点(風雨や洪水)をクリア
江戸の神「明神」
元来は平将門を祭っていた
730年安房国の漁民が安房神社の祭神を擁して江戸前島に移住~江戸に「海」の神が入ってきた
黒潮に乗って太平洋沿岸づたいに西日本から北上してきた海神を祖とする安曇氏を首長とする海部族の進出
(海部族は駿河湾-房総半島-鹿島灘-松島湾まで、 日本海側は北陸、佐渡まで)
(織田完之 平将門故蹟考 碑文協会 明治40年
築土神社誌
赤城 宗徳 平将門 角川書店 1970
小村孝治 将門を祀る神田明神)
平将門(940年没・下総国豊田郡の豪族)は「ミナト」(関東原住民?)と合流、
勢力を拡大、利根川左岸(東関東)の大半を制する
京都の律令政府にとっては反逆行為、将門追討、殺される
将門滅亡後、将門の残党の一部が江戸に移住
神田明神の一郭に将門塚(首塚)を築き、江戸先住民の「ミナト」と合流
(旧武蔵国豊嶋郡芝崎村-現大手町)
将門は「東国」における中心的ミナトである江戸の神となった
神田明神、将門塚は平川が海(日比谷入江)に注ぐ、江戸湊の地
江戸-東京はここを核として発達
山王権現
現在の日枝神社(永田町)の古称
本来は比叡山延暦寺の守護神
(日枝山(比叡山)の山岳信仰、神道、天台宗が融合して成立した、延暦寺の鎮守神-wiki)
浅草寺の地主神?
浅草寺を建立し維持してきた人々と先住民、後住民との習合
(秩父平氏の江戸氏の鎮守様として山王宮が平川(いまの皇居平河門付近)にまつられていました。
のち、この江戸氏を追って、文明10年(1478)太田道灌が江戸城の主になると、
川越から山王を移して今の皇居東御苑の北側に祀りました。-千代田区観光協会
http://www.kanko-chiyoda.jp/tabid/896/Default.aspx
武蔵野開拓の祖神・江戸の郷の守護神として江戸氏が山王宮を祀り、
さらに文明10年(1478)太田道灌公が江戸の地を相して築城するにあたり、
鎮護の神として川越山王社を勧請し、神威赫赫として江戸の町の繁栄の礎を築きました。-日枝神社
http://www.hiejinja.net/about/venerable.php)
東国の俘囚
「俘囚」-京都政権の武力侵略による捕虜
俘囚の反乱の本場(848年、875年、883年)は将門の独立政権の舞台とほとんど重なっている
利根川以東(東関東)
ふう。ここまででまだ江戸氏以前…
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