2018-09-06
『西郷どん』
「西郷どん」33回目を拝見!龍馬が襲撃された寺田屋事件から幕長戦争までが描かれた。
アーネスト・サトウと寺島宗則の通訳掛け合いが絶妙だった(^^) 屈託がないお龍もよかったです。
https://twitter.com/machi82175302/status/1036218364568297472
慶応2年(1866)3月10日に西郷は小松帯刀、桂久武、坂本龍馬らとともに鹿児島に戻った。
これは薩摩藩の中央政局から距離を置くとの基本方針に則ったものであるが、
遅々として進んでいない藩政改革の推進を図るためでもあった。
龍馬は傷を癒し、ほとぼりが冷めるまで潜伏。
https://twitter.com/machi82175302/status/1036220723709321217
西郷は、軍制改革を中心に大いに貢献したため、慶応2年(1866)9月には大目付・役料米200石・陸軍掛に任じられ、さらに、家老同様の扱いで家老座への出席を命じられた。
短期間での大出世であり、西郷は名実ともに藩政の中枢に座ることになり、大久保利通に大きく水を開けたことになる。
https://twitter.com/machi82175302/status/1036220792600547328
この間の薩摩藩におけるトピックとしては、本日描かれた薩英親善の推進があった。
薩摩藩にとって、「小松・木戸覚書」の成立による薩長融和が国内的な同盟関係と規定すると、
薩英融和は対外的な同盟関係と位置付けられる。
https://twitter.com/machi82175302/status/1036221548485476353
薩摩藩は、長州藩とイギリスとの友好関係を基軸にして、廃幕運動を展開することになるが、
イギリスとの友好関係の構築は、文久3年(1863)10月に横浜で行われた薩英戦争の講和談判を起点とする。
https://twitter.com/machi82175302/status/1036221624138182656
この席上で、膠着した交渉の打開を図った起死回生の一策として、
薩摩藩は戦艦や武器の調達を依頼し、また留学生の派遣を打診している。
そのあまりに現実的で柔軟な発想の転換には驚くばかりであるが、それらはいずれも実現し、薩英間は急速に接近した。
https://twitter.com/machi82175302/status/1036221681683984388
留学生15名(薩摩スチューデント)については、慶応元年(1865)5月、使節4名とともにロンドンに到着した。
使節には寺島宗則と五代友厚がおり、その使命には薩摩藩を始めとする大名領の港を外国に開き、
そこで自由に交易できるようにイギリス政府に協力を求めることも含まれた。
https://twitter.com/machi82175302/status/1036221760625029120
こうした中で、友好関係に水を差すような事案が発生した。
慶応元年(1865)9月、パークスら英仏蘭米の代表は大坂・兵庫の早期開市・開港、通商条約の勅許を要求するため、
兵庫沖に艦隊を率いて来航した。
将軍家茂も大坂に滞在しており、この機会を捉えたのだ。
https://twitter.com/machi82175302/status/1036221865448988672
これを受け、薩摩藩の京都留守居・内田政風が朝廷に対し、
兵庫開港の不可を述べ、諸侯を召集してその開否を衆議で決定すべきであり、
もし外国艦隊が不法な行為に出た場合は、率先して在京藩兵が撃攘すると朝廷に申し出た。
https://twitter.com/machi82175302/status/1036221935439437824
こうした薩摩藩の過激な言動は、朝廷や幕府の嫌疑はもちろんのこと、
その思惑を遥かに超えて、イギリスなどの外国勢力にも疑惑の目を向けられることになり、
これ以降の大きな難問に発展した。
https://twitter.com/machi82175302/status/1036222009783463936
つまり、パークスからも嫌疑をかけられたため、
薩摩藩としては大至急、その誤解を解いて薩英関係の修復を図らざるを得なくなった。
その切り札として、パークスの鹿児島への招待が計画された。
パークスから望んだとする説もあるが、薩摩藩としては自らが望んだという立場は憚られた。
https://twitter.com/machi82175302/status/1036222490614235141
慶応2年(1866)6月16日、パークスは鹿児島に入港し、21日に離れるまでの間、
藩主忠義が旗艦にパークスを訪ねたり、久光・忠義父子がパークスらを磯邸で饗応したり、
双方の軍事演習を見学するなどの友好的な儀礼を尽した。
猛烈なご馳走攻めだったが、今日はナマコに終始した感じ
https://twitter.com/machi82175302/status/1036223129993932800
西郷がパークスと会談したことは極めて意義深いものであった。
西郷はイギリスの嫌疑について、藩士を勅使の伴として乗り込ませ回答期限の引き延ばしを図り、
その間に諸侯を上京させて会議を開くことで、
外交権を幕府から朝廷に移管させる目論見であったと説明し、パークスの理解を得た。
https://twitter.com/machi82175302/status/1036223256653586433
さらに、西郷はパークスに対し、朝廷から指名された5ないし6藩の諸侯が外交を掌り、
兵庫開港後の関税は朝廷に納め、西洋諸国と普遍的な条約を結べば、
その時初めて信義で結ばれた関係を構築できるとつけ加えた。
https://twitter.com/machi82175302/status/1036223306632855552
この会談を通じて、西郷は条約勅許時の嫌疑を晴らしたばかりでなく、
十分に薩摩藩の抗幕政略をパークスに理解させ、賛同させることに成功した。
しかも、パークスが幕府から朝廷への外交権の移管に賛意を持っていることを確認でき、
上首尾な会談となった。
https://twitter.com/machi82175302/status/1036223434005475328
西郷・パークス会談によって、薩摩藩が今後の周旋活動への安堵感と自信を得たことは極めて重要であった。
個人的に興奮したのは、薩摩スチューデントの一員でロンドンから帰国したばかりの寺島宗則が登場したこと。
明治初期の外務卿です(^^)
https://twitter.com/machi82175302/status/1036223545544601601
パークスは鹿児島訪問の以前、
江戸において薩摩藩家老の岩下佐次右衛門と会談した際、鹿児島訪問を希望したと薩摩藩側の史料にあります。
『忠義公史料』に、「親睦ヲ表センカ為メ鹿児島ニ到リ、君公ニ見ヘテ親ヲ顕ハサン」とパークスが語ったとあります。 #西郷どん
https://twitter.com/ishin_saigou/status/1036192277549309953
アーネスト・サトウと寺島宗則の通訳掛け合いが絶妙だった(^^) 屈託がないお龍もよかったです。
https://twitter.com/machi82175302/status/1036218364568297472
慶応2年(1866)3月10日に西郷は小松帯刀、桂久武、坂本龍馬らとともに鹿児島に戻った。
これは薩摩藩の中央政局から距離を置くとの基本方針に則ったものであるが、
遅々として進んでいない藩政改革の推進を図るためでもあった。
龍馬は傷を癒し、ほとぼりが冷めるまで潜伏。
https://twitter.com/machi82175302/status/1036220723709321217
西郷は、軍制改革を中心に大いに貢献したため、慶応2年(1866)9月には大目付・役料米200石・陸軍掛に任じられ、さらに、家老同様の扱いで家老座への出席を命じられた。
短期間での大出世であり、西郷は名実ともに藩政の中枢に座ることになり、大久保利通に大きく水を開けたことになる。
https://twitter.com/machi82175302/status/1036220792600547328
この間の薩摩藩におけるトピックとしては、本日描かれた薩英親善の推進があった。
薩摩藩にとって、「小松・木戸覚書」の成立による薩長融和が国内的な同盟関係と規定すると、
薩英融和は対外的な同盟関係と位置付けられる。
https://twitter.com/machi82175302/status/1036221548485476353
薩摩藩は、長州藩とイギリスとの友好関係を基軸にして、廃幕運動を展開することになるが、
イギリスとの友好関係の構築は、文久3年(1863)10月に横浜で行われた薩英戦争の講和談判を起点とする。
https://twitter.com/machi82175302/status/1036221624138182656
この席上で、膠着した交渉の打開を図った起死回生の一策として、
薩摩藩は戦艦や武器の調達を依頼し、また留学生の派遣を打診している。
そのあまりに現実的で柔軟な発想の転換には驚くばかりであるが、それらはいずれも実現し、薩英間は急速に接近した。
https://twitter.com/machi82175302/status/1036221681683984388
留学生15名(薩摩スチューデント)については、慶応元年(1865)5月、使節4名とともにロンドンに到着した。
使節には寺島宗則と五代友厚がおり、その使命には薩摩藩を始めとする大名領の港を外国に開き、
そこで自由に交易できるようにイギリス政府に協力を求めることも含まれた。
https://twitter.com/machi82175302/status/1036221760625029120
こうした中で、友好関係に水を差すような事案が発生した。
慶応元年(1865)9月、パークスら英仏蘭米の代表は大坂・兵庫の早期開市・開港、通商条約の勅許を要求するため、
兵庫沖に艦隊を率いて来航した。
将軍家茂も大坂に滞在しており、この機会を捉えたのだ。
https://twitter.com/machi82175302/status/1036221865448988672
これを受け、薩摩藩の京都留守居・内田政風が朝廷に対し、
兵庫開港の不可を述べ、諸侯を召集してその開否を衆議で決定すべきであり、
もし外国艦隊が不法な行為に出た場合は、率先して在京藩兵が撃攘すると朝廷に申し出た。
https://twitter.com/machi82175302/status/1036221935439437824
こうした薩摩藩の過激な言動は、朝廷や幕府の嫌疑はもちろんのこと、
その思惑を遥かに超えて、イギリスなどの外国勢力にも疑惑の目を向けられることになり、
これ以降の大きな難問に発展した。
https://twitter.com/machi82175302/status/1036222009783463936
つまり、パークスからも嫌疑をかけられたため、
薩摩藩としては大至急、その誤解を解いて薩英関係の修復を図らざるを得なくなった。
その切り札として、パークスの鹿児島への招待が計画された。
パークスから望んだとする説もあるが、薩摩藩としては自らが望んだという立場は憚られた。
https://twitter.com/machi82175302/status/1036222490614235141
慶応2年(1866)6月16日、パークスは鹿児島に入港し、21日に離れるまでの間、
藩主忠義が旗艦にパークスを訪ねたり、久光・忠義父子がパークスらを磯邸で饗応したり、
双方の軍事演習を見学するなどの友好的な儀礼を尽した。
猛烈なご馳走攻めだったが、今日はナマコに終始した感じ
https://twitter.com/machi82175302/status/1036223129993932800
西郷がパークスと会談したことは極めて意義深いものであった。
西郷はイギリスの嫌疑について、藩士を勅使の伴として乗り込ませ回答期限の引き延ばしを図り、
その間に諸侯を上京させて会議を開くことで、
外交権を幕府から朝廷に移管させる目論見であったと説明し、パークスの理解を得た。
https://twitter.com/machi82175302/status/1036223256653586433
さらに、西郷はパークスに対し、朝廷から指名された5ないし6藩の諸侯が外交を掌り、
兵庫開港後の関税は朝廷に納め、西洋諸国と普遍的な条約を結べば、
その時初めて信義で結ばれた関係を構築できるとつけ加えた。
https://twitter.com/machi82175302/status/1036223306632855552
この会談を通じて、西郷は条約勅許時の嫌疑を晴らしたばかりでなく、
十分に薩摩藩の抗幕政略をパークスに理解させ、賛同させることに成功した。
しかも、パークスが幕府から朝廷への外交権の移管に賛意を持っていることを確認でき、
上首尾な会談となった。
https://twitter.com/machi82175302/status/1036223434005475328
西郷・パークス会談によって、薩摩藩が今後の周旋活動への安堵感と自信を得たことは極めて重要であった。
個人的に興奮したのは、薩摩スチューデントの一員でロンドンから帰国したばかりの寺島宗則が登場したこと。
明治初期の外務卿です(^^)
https://twitter.com/machi82175302/status/1036223545544601601
パークスは鹿児島訪問の以前、
江戸において薩摩藩家老の岩下佐次右衛門と会談した際、鹿児島訪問を希望したと薩摩藩側の史料にあります。
『忠義公史料』に、「親睦ヲ表センカ為メ鹿児島ニ到リ、君公ニ見ヘテ親ヲ顕ハサン」とパークスが語ったとあります。 #西郷どん
https://twitter.com/ishin_saigou/status/1036192277549309953
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