2018-09-10
『西郷どん』
(第34回) ―四侯会議
超高速大政奉還でしたね。
慶喜様、20時ちょい過ぎに征夷大将軍になられたと思ったら
20時39分には大政奉還なさったでござるの巻 #西郷どん
https://twitter.com/yosinotennin/status/1038754372656685056
『西郷どん』の慶喜公の軍服はナポレオン三世から送られたフランス式の軍服なのですが,
少ない資料のなかでよく再現されていると思います。
このテーマについては過去にも呟いていますが,改めて投稿してみようと思います。 #西郷どん
https://twitter.com/ColonelStechkin/status/1038752166612152320
坂本龍馬の最後の上京は薩長芸の挙兵に合流するため。
だから、龍馬は大政奉還など想定してなかったし、実際ほとんど関与してない。
https://twitter.com/kirinosakujin/status/1038796345350320129
いや史実の慶喜もフランスに援助は求めても、領土の割譲は拒否したんだぜ。
https://twitter.com/daisuke5513/status/1038751555397148673
西郷隆盛は一橋慶喜を異国を売り渡すといってるが、
一橋慶喜がフランスに日本を売り渡すなら、薩摩や長州はイギリスに日本を売り渡す状態で、
どっちが正しいとは言えないんですけどね。
https://twitter.com/nunonofuku123/status/1038751380888903682
ケイキさんを見てフランスに媚び諂う売国奴というなら、
イギリス引っ張り込んで英仏代理戦争の構図作り上げた薩摩はなんなんですかね……
https://twitter.com/suikyosen/status/1038725165050253312
勝海舟によればロシアが幕府への支援の見返りに北海道を領地に求めてきた事があるという。
一方、プロイセンのマックス・フォン・ブラントが本国に送った書簡によれば、
薩摩は既にグラバーを通じて琉球諸島を担保としての支援をイギリスに求めていたという。
https://twitter.com/aizu_sniper_yae/status/1038751154232950784
琉球(沖縄)をイギリスだかアメリカだかに売る話はたしか明治維新後もしばらくあったはずだから、
売国奴はどっちかというと薩摩だよなぁ
https://twitter.com/suikyosen/status/1038755804520701953
孝明天皇は「今、日本の政治の枢機を任せられるのは
松平容保(会津)、松平春嶽(越前)、島津久光(薩摩)、伊達宗城(宇和島)、山内容堂(土佐)の5人」と挙げていた。
そのうちの会津だけをハブって四藩侯を集めたのですな……(ーー;)
https://twitter.com/aizu_sniper_yae/status/1038748739966390272
「武力で徳川を討つ」なんてこと、当時の西郷は考えていません。
https://twitter.com/ishin_saigou/status/1038721231720071168
西郷は慶応3年8月14日に行われた長州藩士との会合の中で、
「弊藩に於いて討幕は仕らず」 と、はっきり宣言しています。
当時の西郷が考えた武力挙兵とは、徳川家を討つことでは無く、
政権奪取のためでしたが、それも大政奉還により、路線変更を余儀なくされました。
慶喜が政権を返上した以上、武力で事を挙げる必要が無くなったためです。
https://twitter.com/ishin_saigou/status/1038734625579753472
慶応3年12月8日に書かれた岩倉宛西郷書簡には
「真の反正を以て実行挙がり、謝罪の道相立ち候上は、御顧慮なく御採用相成るべき事は勿論に御座候」とあり、
慶喜の新政府採用の可能性に言及しています。
ドラマのように、何としてでも慶喜を討つ、なんて事ではないのです。
https://twitter.com/ishin_saigou/status/1038739194254843909
今回のドラマ内でアッと言う間に描かれた「四侯会議」は、
薩摩藩の、そして西郷のターニングポイントともなった重要な出来事であったと言えます。
四侯会議をちゃんと描かなければ、
「西郷がなぜ武力を背景にした政権奪取策を考えるに到ったのか?」がよく分からなくなる
西郷の政治的な立ち位置は、幕府と諸侯が一体となって朝廷を支え、
朝威を上げるというものであり、あくまでも幕府が非道な処置・行動に出た場合には、
幕府から外交権、ひいては政権を奪取しようとするものであって、
幕府そのものを打倒しようとするものではありません。
ましてや、西郷は武力をもって幕府を討つなどという激しい主張も一切行っていません。
西郷は四侯会議を成功させるべく、四通もの建白書を書いて久光を説き、
そして鼓舞しましたが、最終的に慶喜の巧みな政治手腕によって、四侯会議は瓦解へと追い込まれました。
「一橋公は橘詐百端の心術の人物で、至公至平をもって賢侯の公論を容れる事は覚束ない」ということですが、
このように西郷と大久保から見た慶喜とは、権謀術数を操る油断ならぬ人物であったのです。
岩倉は慶喜のことを「一番の強敵」と評しています。
そのような幕府の態度を目の当たりにした西郷は、
四侯会議を基礎とした公議政体論を捨て、武力を背景とした政権奪取案を考えるに到りました。
つまり、ここにおいて初めて、西郷は幕府を見限るに到ったと言えるのです。
http://keitenaijin924.blog.fc2.com/blog-entry-145.html
<今日の #西郷どん で徳川慶喜がやってのけた「大政奉還」なるものが
どれくらい(薩長にとって)ヤバい鬼札だったのか?について
四侯会議における慶喜らとの政治的対立もあり、
薩摩藩は禁門の変以来の対幕府協調路線を放棄し、かつての仇敵長州藩と組んだ武力倒幕路線へ傾いていくわけだが、
そんな薩摩藩の方針転換が根本的に引っくり返りそうになった一大イベントこそ「大政奉還」だった。
「大政奉還」とは何なのか?
政権返上と言えば追い詰められた慶喜が政権を投げ出したようにも聞こえるが、そうではない。
なぜなら慶喜が返上(放棄)したのは「朝廷から大政を委任された幕府」という看板であって、
幕府を構成していた「徳川宗家とそれに仕える旗本・御家人」という実務集団ではないからだ
つまり慶喜がやったことは、長らく徳川宗家を縛っていた「幕府」という看板の呪縛を解き、
徳川宗家を「全国400万石を治めるブッチギリ最強最大の雄藩」に化けさせたわけである。
で、ここで先に一旦頓挫した参預会議や四侯会議といった雄藩合議体制が息を吹き返してくる。
慶喜の狙いとは、徳川家を薩摩藩島津家や土佐藩山内家などと同格の一雄藩諸侯としつつ、
他の雄藩諸侯が逆立ちしても持ち得ない「全国を円滑統治するノウハウと実務能力」によって
雄藩合議体制におけるフリーハンドを得ることだったわけだ。
当然、実務能力で圧倒的に劣る薩摩藩はこれに対抗し得ない。
武力倒幕に傾斜しかけた矢先こんな奇策を喰らった薩摩藩は物凄く狼狽える。
何しろ倒すべき幕府が倒す前になくなったあげく慶喜を中心とする徳川家は
そのまま国政の中枢に居座ったばかりか、
所詮薩摩大隅2ヶ国を治める地方勢力でしかない自分達はこのまま中枢から滑り落とされる可能性が高いわけで。
ただ一転苦境に立たされた薩摩藩にも光明が差し込む。
同じく大政奉還によって権力の中枢から叩き出されそうになった岩倉具視が、
薩摩の実質的指導者たる大久保利通と組んで起死回生の鬼手をひねり出す。
この逆転満塁ホームラン「王政復古の大号令」で薩長は息を吹き返すのだが、それはまた別の話……
https://twitter.com/suikyosen/status/1038760515558723584
それまでの政局を根幹から引っくり返した徳川慶喜の大政奉還を評価すればするほど、
それを更に根幹から引っくり返す王政復古なる妙手を思いついて実行した岩倉具視の評価が鰻登りになるアレ
https://twitter.com/suikyosen/status/1038775703615881216
超高速大政奉還でしたね。
慶喜様、20時ちょい過ぎに征夷大将軍になられたと思ったら
20時39分には大政奉還なさったでござるの巻 #西郷どん
https://twitter.com/yosinotennin/status/1038754372656685056
『西郷どん』の慶喜公の軍服はナポレオン三世から送られたフランス式の軍服なのですが,
少ない資料のなかでよく再現されていると思います。
このテーマについては過去にも呟いていますが,改めて投稿してみようと思います。 #西郷どん
https://twitter.com/ColonelStechkin/status/1038752166612152320
坂本龍馬の最後の上京は薩長芸の挙兵に合流するため。
だから、龍馬は大政奉還など想定してなかったし、実際ほとんど関与してない。
https://twitter.com/kirinosakujin/status/1038796345350320129
いや史実の慶喜もフランスに援助は求めても、領土の割譲は拒否したんだぜ。
https://twitter.com/daisuke5513/status/1038751555397148673
西郷隆盛は一橋慶喜を異国を売り渡すといってるが、
一橋慶喜がフランスに日本を売り渡すなら、薩摩や長州はイギリスに日本を売り渡す状態で、
どっちが正しいとは言えないんですけどね。
https://twitter.com/nunonofuku123/status/1038751380888903682
ケイキさんを見てフランスに媚び諂う売国奴というなら、
イギリス引っ張り込んで英仏代理戦争の構図作り上げた薩摩はなんなんですかね……
https://twitter.com/suikyosen/status/1038725165050253312
勝海舟によればロシアが幕府への支援の見返りに北海道を領地に求めてきた事があるという。
一方、プロイセンのマックス・フォン・ブラントが本国に送った書簡によれば、
薩摩は既にグラバーを通じて琉球諸島を担保としての支援をイギリスに求めていたという。
https://twitter.com/aizu_sniper_yae/status/1038751154232950784
琉球(沖縄)をイギリスだかアメリカだかに売る話はたしか明治維新後もしばらくあったはずだから、
売国奴はどっちかというと薩摩だよなぁ
https://twitter.com/suikyosen/status/1038755804520701953
孝明天皇は「今、日本の政治の枢機を任せられるのは
松平容保(会津)、松平春嶽(越前)、島津久光(薩摩)、伊達宗城(宇和島)、山内容堂(土佐)の5人」と挙げていた。
そのうちの会津だけをハブって四藩侯を集めたのですな……(ーー;)
https://twitter.com/aizu_sniper_yae/status/1038748739966390272
「武力で徳川を討つ」なんてこと、当時の西郷は考えていません。
https://twitter.com/ishin_saigou/status/1038721231720071168
西郷は慶応3年8月14日に行われた長州藩士との会合の中で、
「弊藩に於いて討幕は仕らず」 と、はっきり宣言しています。
当時の西郷が考えた武力挙兵とは、徳川家を討つことでは無く、
政権奪取のためでしたが、それも大政奉還により、路線変更を余儀なくされました。
慶喜が政権を返上した以上、武力で事を挙げる必要が無くなったためです。
https://twitter.com/ishin_saigou/status/1038734625579753472
慶応3年12月8日に書かれた岩倉宛西郷書簡には
「真の反正を以て実行挙がり、謝罪の道相立ち候上は、御顧慮なく御採用相成るべき事は勿論に御座候」とあり、
慶喜の新政府採用の可能性に言及しています。
ドラマのように、何としてでも慶喜を討つ、なんて事ではないのです。
https://twitter.com/ishin_saigou/status/1038739194254843909
今回のドラマ内でアッと言う間に描かれた「四侯会議」は、
薩摩藩の、そして西郷のターニングポイントともなった重要な出来事であったと言えます。
四侯会議をちゃんと描かなければ、
「西郷がなぜ武力を背景にした政権奪取策を考えるに到ったのか?」がよく分からなくなる
西郷の政治的な立ち位置は、幕府と諸侯が一体となって朝廷を支え、
朝威を上げるというものであり、あくまでも幕府が非道な処置・行動に出た場合には、
幕府から外交権、ひいては政権を奪取しようとするものであって、
幕府そのものを打倒しようとするものではありません。
ましてや、西郷は武力をもって幕府を討つなどという激しい主張も一切行っていません。
西郷は四侯会議を成功させるべく、四通もの建白書を書いて久光を説き、
そして鼓舞しましたが、最終的に慶喜の巧みな政治手腕によって、四侯会議は瓦解へと追い込まれました。
「一橋公は橘詐百端の心術の人物で、至公至平をもって賢侯の公論を容れる事は覚束ない」ということですが、
このように西郷と大久保から見た慶喜とは、権謀術数を操る油断ならぬ人物であったのです。
岩倉は慶喜のことを「一番の強敵」と評しています。
そのような幕府の態度を目の当たりにした西郷は、
四侯会議を基礎とした公議政体論を捨て、武力を背景とした政権奪取案を考えるに到りました。
つまり、ここにおいて初めて、西郷は幕府を見限るに到ったと言えるのです。
http://keitenaijin924.blog.fc2.com/blog-entry-145.html
<今日の #西郷どん で徳川慶喜がやってのけた「大政奉還」なるものが
どれくらい(薩長にとって)ヤバい鬼札だったのか?について
四侯会議における慶喜らとの政治的対立もあり、
薩摩藩は禁門の変以来の対幕府協調路線を放棄し、かつての仇敵長州藩と組んだ武力倒幕路線へ傾いていくわけだが、
そんな薩摩藩の方針転換が根本的に引っくり返りそうになった一大イベントこそ「大政奉還」だった。
「大政奉還」とは何なのか?
政権返上と言えば追い詰められた慶喜が政権を投げ出したようにも聞こえるが、そうではない。
なぜなら慶喜が返上(放棄)したのは「朝廷から大政を委任された幕府」という看板であって、
幕府を構成していた「徳川宗家とそれに仕える旗本・御家人」という実務集団ではないからだ
つまり慶喜がやったことは、長らく徳川宗家を縛っていた「幕府」という看板の呪縛を解き、
徳川宗家を「全国400万石を治めるブッチギリ最強最大の雄藩」に化けさせたわけである。
で、ここで先に一旦頓挫した参預会議や四侯会議といった雄藩合議体制が息を吹き返してくる。
慶喜の狙いとは、徳川家を薩摩藩島津家や土佐藩山内家などと同格の一雄藩諸侯としつつ、
他の雄藩諸侯が逆立ちしても持ち得ない「全国を円滑統治するノウハウと実務能力」によって
雄藩合議体制におけるフリーハンドを得ることだったわけだ。
当然、実務能力で圧倒的に劣る薩摩藩はこれに対抗し得ない。
武力倒幕に傾斜しかけた矢先こんな奇策を喰らった薩摩藩は物凄く狼狽える。
何しろ倒すべき幕府が倒す前になくなったあげく慶喜を中心とする徳川家は
そのまま国政の中枢に居座ったばかりか、
所詮薩摩大隅2ヶ国を治める地方勢力でしかない自分達はこのまま中枢から滑り落とされる可能性が高いわけで。
ただ一転苦境に立たされた薩摩藩にも光明が差し込む。
同じく大政奉還によって権力の中枢から叩き出されそうになった岩倉具視が、
薩摩の実質的指導者たる大久保利通と組んで起死回生の鬼手をひねり出す。
この逆転満塁ホームラン「王政復古の大号令」で薩長は息を吹き返すのだが、それはまた別の話……
https://twitter.com/suikyosen/status/1038760515558723584
それまでの政局を根幹から引っくり返した徳川慶喜の大政奉還を評価すればするほど、
それを更に根幹から引っくり返す王政復古なる妙手を思いついて実行した岩倉具視の評価が鰻登りになるアレ
https://twitter.com/suikyosen/status/1038775703615881216
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